感想日記 夜明けの青

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感想『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』シリーズ 悪い子は生きていてはいけないのか?

ええと、初めての感想記事ということになります。

 

 

作品は入間人間先生の『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』です。最近(?)、新作が発表されて、少し話題になった(はず)なので、知っている人も多いと思いますし、ああそんな作品あったなぁという人も、かなりの数いるんではないでしょうか?

 

で、今更、この作品が何なんだ、ということですが、実はこれ、初めて、ぼくが小説家になりたい、と意識した作品なのです(どうでもいい)。特に読書が好きでもなく、いたって普通の毎日を過ごしていた、小学生のぼくが兄に勧められ、読んでみた、ある種のきっかけとなった、思い入れの深い作品です。ここから、僕の人生が始まった、というと過言ですが、確かにエポックではありました。

 

あらすじなのですが、自分にはどうしても書けないので、皆さん各自で確認してもらうこととして、八年前の誘拐事件の被害者である、僕とまーちゃんが出会う所から、物語は始まります。街では殺人事件と誘拐事件が起きていて、その八年前の状況によく似た、それらの事件へ、僕とまーちゃんは巻き込まれていくのです(だいぶ語弊がある)。

この作品の面白さは全体的な構成の妙もあるのですが、、主人公の語り(騙り、という方が正しいかもしれません)の面白さだと思います。嘘だけど、と言い、過剰な語りを装飾していくスタイルは、西尾維新先生の戯言シリーズのパクリ等と言われますが、それでもやっぱり面白いものは面白い(中学時代、嘘だけどと真似をする痛い中二病だったことは忘れたい過去です)。

 

ああと、語りたいのは作品の宣伝ではなく、タイトルにあるようなことなのですよね。基本的にネタバレで行く方針ですので、ご注意ください。

 

物語(シリーズ?)が後半へ進んでいくと、八年前の誘拐事件を体験していたのが、みーくんとまーちゃん、そして被害者の息子である僕、だということが分かってきます。彼ら三人は事件の後遺症で、明らかに精神が異常をきたして、まーちゃんは倫理観の欠如であったり、僕は軽い虚言癖めいたものから感情が壊死(そういう独白がある)という状態、極めつけに、みーくんはシリアルキラーになってしまいます(みーまーを読んでいない人はまったく意味が分からないと思います。ぼくも分かりません。記事の書き方が悪い)。

さらに、その誘拐事件というのが、誘拐犯の死によって解決されます。誘拐犯はみーくんとまーちゃんに猟奇的な技を仕込み、その果てに三人は精神を破綻させていくのですが、結果として狂ってしまったまーちゃんが、誘拐犯を殺すことによって、監禁から逃れ、三人は解放されます。

 

この物語は、まずここまでが前日譚としてあったことで、これを前提にして話が進んでいきます。これでようやく本題なのですが、主人公である僕は、理由はよく分からないけれど、まーちゃんを幸せにするために彼女の前に現れます(事件でおかしくなってしまったまーちゃんは、自分のことをまーちゃんと呼ぶ人をみーくんと認識します。みーくんとまーちゃんはドのつくバカップルであり、それが誘拐犯に狙われた理由ともなっています)。そして、僕とまーちゃんとのバカップル生活が始まっていくのですが(初めは、本当のみーくんまーちゃんの模倣なのですが、最期には彼ら自身の生活を始めるのではないかな、という所で話が終わっています。11巻? 忘れましょう(嘘嘘、面白いですよ))、この主人公である僕が、まーちゃんにとっても甘い。事件の容疑者に仕立て上げられている所を知らず、助けてあげたり、彼女のトラウマ克服のために、クローズドサークルな実家帰りを果たしたりするんですが(4-6巻あたり。話としては乙一さんの「GOTH」で似たような話がある。あれは首を絞めながら眠ると安眠できる、という森野夜のために、主人公が彼女の実家から昔、イタズラに使ったロープを持って帰ってくるというものだった)、とにかく、僕はまーちゃんのためなら何でもする、と公言して、その通り何でもするんですが、その理由というのが、作中では語られない(確か。記憶が定かではない)。僕が精神科医の先生と語っている場面で、辛い過去を忘れ、幼い精神のままでいるまーちゃんに対して、果たして正常であることとは何か、まーちゃんを正常に戻すことは、つまり過去の辛い記憶を思い出すことであり、殺人の責任をも問う行為である、それが正しいのか、という趣旨の会話をします。

 

ぼくはこのテーマがとても重要だと感じて、その後も自分で書く物語には必ず、このテーマが入り込んできてしまいます。

 

まーちゃんは壊れてしまった心をかき集めて、子供の頃のままみーくん(および、それを騙る僕)との幸せな生活の中にいます。初めは不幸な事件の被害者であったけれど、人を殺したということに変わりはない。それがたとえ、自分が助かるためであったとしても。

ですが、みーまーという作品はこの問題にフォーカスしません。主人公が誘拐犯の息子の僕ということもあって、作品の終わりには、本物のみーくんが現れ、僕とみーくんとどちらを選ぶのか、がまーちゃんによって決定されるという、僕の実存的な結末になっていくからです。まーちゃんは決して過去を思い出したりしません。むしろ、僕が自分自身の居場所(まーちゃんに必要とされるため、彼自身はみーくんを騙り続けなければいけません)を確保するため、まーちゃんが何かを思い出そうとすることを、拒否し続けます。

 

まーちゃんは僕という絶対の庇護者を手に入れて、不幸の背景の中の幸せだけを噛みしめて生きています。自分自身を省みるということがないのです(勘違いしてほしくないのは、だからこの作品が駄目と言いたい訳ではありません)。

 

ここでぼくが問題にしているのは、過去に罪を犯した人間は生きていてはいけないのか、という命題だと思っています。同時に、生きるために罪を犯さなければいけないが、それは正しいのか。また、自分の幸福を追求した時、他人を不幸にしてしまう人も、同じ問題の中にいると感じています。例えば、全世界の人間の幸福を実現しようとした時、他人が不幸になる様を見るのが幸福です、と答える人がいた時、全世界の幸福というのは存在し得なくなります。では、他人の不幸が自らの幸福だと答える人は、幸せになってはいけないのでしょうか?

 

この問題の内、一つには答えが出ていると思います。自分は悪い人間なので、罪を償わなければいけない。という思考は善悪二元論であるので、そこから脱出していけば、解決する問題です。例えば、ついこの間放送していた、ヴァイオレット・エヴァ―ガーデンでは、兵士として戦争に従事していたヴァイオレットが、手紙の代筆という仕事を、人を殺した手で手紙を編むのか、と否定されますが、代筆によって紡いできた人と人の絆や、彼女がいなければ成り立たなかったであろう、国同士の融和が各エピソードで描かれ、過去にしてきたことは消せないが、自動手記人形としてやってきたことも消えないんだ、という言葉に励まされ(言葉だけではなく、彼女自身の実感としてあったことですが)、そのような二元論的な考えから抜け出していきます(その後の話として、彼女が自動手記人形として、テロを阻止しようと動く、という展開は本当に素晴らしかったと思います。自分の根源を見つめ、そこから生じてくる悪から目を逸らさない、というと抽象的すぎますが、ヴァイオレットが先にあげた言葉だけで生きていくのではなく、自分がしてきたことにしっかり責任を取る、その覚悟がある、ただの綺麗事にしなかったのは、見習いたい脚本です)。

つまり、自分は悪だ、滅びるべき存在だ、という結論に至ってしまった時、人間はそういった一面的の存在ではなく、良い所もあれば、悪い所もあるモザイクな存在だ、と認識することで、善悪二元論から脱出できる、のだと思います(こう書いている自分も、あまり実感としては分かっていません)。

 

さて、もう一つの問題です。

自分の幸福を追求すれば、他人を不幸にしてしまう。究極に言えば、他人の不幸こそが自分の幸福なのだ、という人は幸せになれるのか。現実的に考えれば、そんな人間、当然ろくでもないので、生きている価値はない、幸福になっていい訳がない、ということになるでしょうが、まあ置いておきましょう。

この問題を描いた作品に、宮崎駿監督の「風立ちぬ」があります。主人公の堀越二郎は、貧乏な国で街の何でもない子供にひもじい思いをさせながら、飛行機を作り、その飛行機は別の国の街を焼くために、空を飛んでいきます。結末は言わずもがなで、彼は最愛の人を失い、国を滅ぼします。ですが、この作品は夢を追いかけることを肯定します。というのも、人間がどのように生きるのかを決定づけるのは、やはり何が好きなのか、ということだからです。自分がやっていて楽しいことをやらなければ、生きていたって面白くない、というのは分かってもらえると思います。

ですが、やはりぼくが追求したいのは、他人の不幸こそが自分の幸福なのだ、という人のことです。恐らく、そのような人が幸せになっていい訳がない、という思考は今ある倫理観に縛られた思考だと思うので、どこかでブレイクスルーというか、反転というか革命のようなものがあれば、充分引っ繰り返る余地を持っていると思います(それが現実的かはさておいて)。

 

まあ、自分としてはもう結論が出ていて、それでも幸せになっていいんだ、とは思います。勿論、そういった暗い動機を、転化なり昇華なりさせて、社会的に役立つものに変えていく、といった作業は求められるでしょうが、幸福を追求する権利は否定しようのないものだと思います(このあたり、公共の福祉だとか社会正義の話をもっと勉強しなければいけません)。

で、ここからは作者的な目線(何だそれは)で話すとするなら、この問題をどう物語にするのか、言い換えれば、どう受け入れやすくし、どう面白くするのか、を考えなければいけません。といった所で、終わりにします。

 

雨の強くなってきた五月の夜