感想日記 夜明けの青

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感想「蛇を踏む」川上弘美 自我のヴァリエーションとしての文学

 

蛇を踏む (文春文庫)

蛇を踏む (文春文庫)

 

 今回は、「蛇を踏む」文集文庫版で、表題作の他にも二編「消える」と「惜夜記」を交えて、記事を書いていきたいと思います。

 

まず自我って何、ということですが、まだまだ不勉強なもので勘弁してください。ここで言いたいのは、近代を構成する個人という概念に対してのもので(多分)、夏目漱石だとか、近代小説を語る時に、近代的自我とか言われてるものを、まあどうにか分かりたいと思って、今回の記事とか書いております。

あまたの動物や植物が入り乱れる川上弘美の世界では、種と種との間の境界がいきなりどろりと溶け出して、分類学の秩序に取り返しのつかない混乱が生じてしまう。

いきなり作品の解説の解説から始めてしまう訳ですが、文春文庫版の解説は松浦寿輝さんの書き出しです。この解説では、川上弘美さんの作品世界では、あるゆるものの輪郭が曖昧になり、自らを動物化したり、植物化したり、生き物とそうでない者の境界も、平気で越えていってしまう、という旨が書いてあります。分類学的な種のカテゴリーを無視し

「者」とも「物」ともつかなくなったものたち

と形容される登場人物たちが、変化し続けていく様子を川上弘美さんは描くのだ、と指摘して、松浦寿輝さんは論を進めていきますが、ぼくはここで立ち止まって考えたい。

 

この、「者」とも「物」ともつかなくなったものたち、とはいったい何なのか。作品内では、「ねこま」と呼ばれる奇態な生き物や、「惜夜記」の冒頭で「背中に夜が食い込んでいる」といって、夜の街に駆けだしていき、果てには馬になってしまう主人公などが描かれており、例をあげるのに困ることはありません。が、ここで言いたいのはそういったことではなく、境界を飛び越えていって、輪郭を曖昧にし、どろりと溶けて、変化を繰り返すものたちとは、何なのだろうということです。

 

これを考えるために、引いておきたい補助線は、これまでの文学がどんなものを主題としてきたか、です(こんなこと書くと、自分が大それた人間に見えますが、ぼくが理解できている範囲で語るので、当然、納得性や学術的な価値はありません)。

ぼくはそれを、個人としての自我とその成長、ととりあえずは言い切っておきます(中身のないすかすかの言葉)。ここでぼくが思い出すのは、大塚英二さんが「サブカルチャー文学論」で語っていた、村上龍村上春樹高橋源一郎、三人のデビュー作についての論考です。

大塚英二さんは、彼ら三人は小説のリアリティを担保するものを、外側から持ってくる、というのです。それはどういうことか、といえば、村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」において、そのリアリティを担保するものは、これは作者の実体験に基づく私小説だ、という視点です。もちろんあんなドラッグパーティだとかを、作者の経験したものと語っている訳ではなく、作品の主人公リュウと、作者である村上龍さんが同名であり、あとがきまでをも作品内に含めたような書き方が、私小説的なリアリティをかもしているという訳だ。

また村上春樹高橋源一郎の二人は、デビュー作を書くまでに長い失語症的期間があったことを語り、村上春樹さんはデレク・ハートフィールドという小説家(架空の)と出会ったことで小説を書き始めたとまで言う。

それらは、三人それぞれの小説のある種の弱さを押し隠すための技術である訳です。大塚英二さんはその弱さとは、庄司薫という作家が、彼らという存在を彼らに先駆けて語ってしまったからだ、というのですが、ぼくはそれよりかは、これらの作品が現れた七十年代から八十年代の時代に、その理由を求めたい気がする。

というのも、この年代の日本は経済の発展と何十年もの平和が重なった、モラトリアム的期間だったからだと思うからです。現代日本のように先進国特有の問題を抱えることもなく、キャッチアップ方式でアメリカを見本に、頑張れば頑張っただけ、報われるという天国のような世界です(まあ、それだけではないでしょうけれど)。そうした時代に生きていた人たちが抱えていた不安を、彼ら三人が代表していたのではないか、というのがぼくの考えです。ぼくが勘違いしていなければ、この頃DCブランドが流行し、総中流階級とまで言われた、戦後民主主義の世界で、そこに生きる人たちはアイデンティティ不安を抱えていたのではないか。誰もが平等な権利を持ち、欲しいと思ったものは何でも買える、それ故に誰もが同じであることから逃れるように、差異化のゲーム(どこで読んだのか忘れましたが、何かの本からの引用になります)が激しくなっていく。村上春樹さんがどこで書いていたかは忘れましたが、小説を書こうと思ったそのはじめに、何を書けばいいのか分からなかったということを言っていたと思います。だから、自分は何を書けばいいのか分からないということを、書こうと。この時代に、そういった自我の不安定さ、脆さが明らかになり、それを補う形で村上龍村上春樹高橋源一郎の三人は、小説とは違う次元からリアリティを担保するという手段をとったのでしょう。

 

サブカルチャー文学論

サブカルチャー文学論

 

 

 

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

 

 

 

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

 

 

 

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

 

 

さて、確固とした自分を基調に紡がれる小説は、そうしてその脆弱性が明らかになった後、変化を経て、川上弘美さんの世界へ接続されます。それはどういうことか、つまり、ありとあらゆるものが自我を持ち、小説の語り部となる、ということです。 「消える」において、主人公のわたしはねこまという、曖昧な存在に変化し、「惜夜記」の最期(と言わず、至る所で人から、全く別の存在へ変化していきます)「わたし」はイモリになって、人へ噛み付く。ここで示されているのは、どんな存在も小説の主人公になれる、ということです。そして小説の主人公になれるということは、そこに自我が存在していることを認めることでもある訳で、換言すれば、自分ではない他人にも心があるのだ、と認める行為なのです。

個人というものは曖昧で、最近ではAIに人格が産まれたとして、それに人権を与えるのか、という議論があったと思いますが、それと全く同じで、小説の主人公として語る言葉を与えられ、語るべき内容があったとして、それはもう人格たり得ているでしょう。思考実験で中国人の箱、だかもありましたよね。

これをまた別の言葉に言い換えて、小説が描きうる範囲を広げた、というととても文学的な営みに聞こえます。

 

ではでは、この他人にも心があるんだ、と認めた先にはどんな物語があるのか。ぼくはあまり多くの本を読んでいる訳でもないので、ほとんど思い当たるものはないのですが「まおゆう」は、その人と人の利害がぶつかり合う場としての世界を描いている作品ですね。しかもそれがエンターテインメントである、というのはとても驚きです。この人と人の利害がぶつかり合う場所、を描く時、面白くなるのは三国志的な、鼎立がふさわしいらしいんですね(この辺り、物語三昧ラジオの鵜呑みの吐きもどし)。文学でこういうものは寡聞にして聞かないので、ちょっと気になるところではあります。受賞した作品でも、こうした自我のヴァリエーションのものが多い気がするので、これから探っていこうと思います。

 

余談ですが、朝井リョウさんの「何者」も自我の相対化の別パターンという感じですね。川上弘美さんのやり方では、自我というものは世界に多数存在している、というだけのニュートラルな視点ですが、別の方向に作用させると、あなたの自我なんてちっぽけなものですよ、という相対化に進んでいく。多くは告発(これも借り物の用語)の物語になるのですが、その代表として「何者」があるんじゃないですかね。SNSが自我の発露の道具として上手く使われていて、すごいなぁと思う反面、物語として今ではもう古い形になってしまいましたね。

あなたという存在は取るに足らないものなんだよ、と告げられるだけの物語より、その先を見せてくれるものが、これからの時代の物語なんでしょうね。

 

「蛇を踏む」の感想が一行もないと気付いた、六月の午後