感想日記 夜明けの青

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考察「公式による二次創作ってどうなの」について

https://www.monozann.com/記事/きょうも空想日和/

 

考察と言っても、大したことを言う訳ではないですが……。

えーと今回は、〈プロジェクト物語三昧〉Official Website より【ニートブロガー海燕の〈きょうも空想日和〉】第一回「公式による二次創作ってどうなの」について、考えてみたいと思います。

 

ここで言う所の二次創作とは、引用した記事の中でも書いてあることですが、単純にとある作品を借用して作り出された作品とは別のものを指しています。

 ここでいう「公式による二次創作」とは、そういった作品とは少し性質を異にするものです。たとえば、『金田一少年の事件簿外伝 犯人たちの事件簿』。

 これは名目上は「外伝」となっていますが、通常の外伝漫画とはあきらかに異なる性質の作品です。一応はシリアスな本編をギャグ漫画にして笑い飛ばしているところに特徴がある。むしろ、「セルフパロディ」という表現が適当かもしれません。 

思うにこの「公式による二次創作」とは、既存の文脈を相対化してしまう(しかも公式の)二次創作作品ということになるでしょうか。

そして、海燕さんが違和感を表明するのは、まさにこの点で、 ここで海燕さんが言いたいことは、今までの作品に対する読み(文脈)を書き換えてしまう行為、それを促進していく公式について、それはどうなの、と問いかけているのですね。

 

まず考えたいのは、それの何がいけないのかということですが、ぼくの結論から言いますと、そう悪くないのでは、と思っています。

 

海燕さんが記事内で

 作者本人が描いている漫画ではないとはいえ、「公式」が自らその作品を笑い飛ばすようなことをして良いのだろうか?と思うからです。

 もちろん、「公式」である以上、権利的には問題ないわけですが、こういうセルフパロディは本編の真剣さを台なしにしてしまうのではないかと考えるわけです。 

 と書いています。こういうのをミームの汚染というのでしょうか? 本編の真剣さが失われるとは、つまり作品への没入感が損なわれていくこととぼくは考えます。恐らく、そういった読みはネット上の「彼岸島」などの感想を見ると分かりやすいと思いますが、多くの作品は読者に共感、または感情移入させることで作品内のリアリティを保っています。ぼくは設定の破たんのない作品など存在しないと信じていますが、こんなのありえないと思った瞬間に作品が遠のいていく感覚というのは、みなさん覚えがあるのではないでしょうか(この辺り、もう少し厳密な定義?なり論考?なりが必要と思いますが、今のぼくにはできないので、次へ進みます)。

本編の真剣さが失われる=没入感が損なわれるとは、作品を楽しめなくなる第一歩と言うことが出来ると思います。ですが、それは必ずしも悪い事ではないでしょう。なぜなら、それは読みの多様化だからです。物語三昧ラジオのマインドマップマップ講義において、世界を善と悪に分け、悪を滅ぼす物語から、その先へと進んでいった文脈を知ったからこそ言えるのですが、ぼくら現代の読者というのは、主人公に感情移入して、正義を成すという単純さの中から抜け出すことが出来ます。それと同じように、事件を見事な推理で解決する探偵の物語を、ぼくらはまた別の角度から眺めることが出来るようになったのです。一見、作品を茶化しているように見える「公式による二次創作」作品も、そういった豊かさの一部だとぼくは思うのです。

 

また、これも聞きかじりの事ですが、古い文学作品に注釈が付いていることがありますよね。「源氏物語」や比較的新しいものだと「坊っちゃん」など、古典と言われるものにはつきものです。ぼくはそれら注釈をただの解説程度にしか思っていませんでしたが、文学研究の場では、注釈もまた作品の一部と解釈することがあるそうです。注釈は挿話の出典元を記したり、現代(その時代ごとの)で通用しなくなった単語の解説をするなど、注釈は時代を経るごとに乖離していく読者と作品の間を埋める役割も果たします。

そして、またある時には注釈書をもとに、とある作品がもう一度脚光を浴びるということもあったのです。有名なのは本居宣長の「古事記伝」です。それまで「古事記」は「日本書紀」の副読書ほどの扱いしか受けていなかったのです。

さて、ここでぼくが何を言いたいかというと、二次創作によって注目されるものもあるということです。平安後期に「源氏物語」の読み会(既に、「源氏物語」が古いものとなり、読みにくくなっていたために、勉強会を催したそうです)があったように、古くなった作品を新しくする試みとして二次創作があり、未来の古典を、二次創作作品が発掘することもあるのではないでしょうか。

またそれは敷居を低くし、裾野を広くする活動と同義と思いますので、今後の業界の発展にも寄与するのではないか、なんて思ったりもします。

 

d.hatena.ne.jp

上記の考えは、この記事が基になっているものが多いです。

 

さてさて長々と語りましたが、海燕さんの問いに対して、根本的な所ではまったく答えていないように思います。というのは、先程ミームの汚染? と書いたように、一度パロディ的視点で見始めた作品に、もう一度没入し、本来あり得ただろう読みに沿って、作品を楽しむことはほぼ不可能だからです。本来の文脈から離れた所で作品を読むことの良さは語りました。パロディ的手法によって、作品が延命する可能性についても語りました。海燕さんの意見を、あるべき読み(理想)を絶対視するものだと批判することも可能かもしれませんが、パロディによる作品の延命を語るのなら、パロディによって、作品から離れていってしまう人たちを無視することもできないでしょう。

とはいえ、それは好みの問題だから、と片付けてしまうしかないのでしょうか?

勿論、それらの読みを対立的に理解する必要もないと思いますが、これ以上を考えるのは、今のぼくには荷が重いので、この辺りにしておきます。