感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

百合から始まる、恋愛不可能性について

 

 

 この記事はアニメ7話を見てから、書いています。いまだ原作未読ですけど、先にアニメの方をワンクール見たい派なので、ご容赦ください。

 

 で、7話ですが、主に佐伯先輩の話によって、この「やがて君になる」という物語の核心が見えてきたように思います。では、それは何なのかというと、百合の恋愛不可能性、ではないかと思います。 わざと小難しい言い方をしてるのは自覚してます。これは言い換えるなら、女の子同士で恋人なんておかしいよね、という気持ちをさらに突き詰めた、女の子同士で恋愛は成り立たない、というある種、結論めいたものです。それよりも、むしろ、土俵に立たせてもらえないというほうが正確でしょうか。

 今回、佐伯先輩の心情に寄り添った話でしたが、ここで描かれたのは、佐伯先輩と燈子さんの間の恋愛不可能性です。この恋愛にならない感じというのは「やがて君になる」全体を覆うもので、侑と燈子さんの関係がそれを端的に示していますが、彼女たちはどうあがいても、自らの好きな人と恋愛関係になることは出来ません。唯一、望むような恋愛を手にしているのは燈子さんですが、これも6話最後の独白にあったように、自分の理想の押し付けであり、またその相手である侑が、まったく恋愛的な感情に揺るがない、という点でも、この恋愛不可能性は彼女たちの関係を規定しています。

 つまり、この物語で問われているのは、女の子同士で恋愛が成り立たないという地点から、女の子同士の好きという関係性の中で何が得られるのか、ということです。得られるというと功利的で、あまり正しい言い方ではないのですが、まあ、他に言い換えるとすると、恋人以外の関係では、どのような在り方があるのか、ということでしょうか。それも少し違うかな?

 

百合とBLの違い

 これを考えるために、まずは同性の恋愛として、BLを引き合いに出してみましょう。といっても、百合もBLもジャンルを熟知している訳ではないので、議論が浅薄だとは思いますが、お付き合いください。

 まず、考えたいのはBLとは何かです。これは中島梓さんの「タナトス生態学」から、ふわっと引用させていただきますが、BLとはとどのつまり、セックスも生殖も出来ない存在を愛せるのか、という問いだった、とするのがぼくの理解です。中島梓さんはBLとエイズ患者を比較して、論じていましたが、つまりエイズとは人生のパロディ的病であり、いつ死ぬのか分からない、いつ発病するかさえ知れない爆弾を抱えた人間であるということでした。そして、その病気はセックスすることにより感染する。こうして、人間の存在意義の一つである、子孫を残すこと、そして三大欲求の一つであり、愛の表現方法でもあるセックスを失った人間を、それでも愛せますか、と中島梓さんは問うのです。ここで真に問題とされているのは、ただの人間の存在そのものを認めることが出来るのか、という点であり、そこがまさにエイズ患者とBLを繋ぐ線でもありました。

 では、翻って、百合はどうでしょう。まず百合は女性同士の関係であることから、第三者の男性を介することで、子どもを産むことが可能であり、この時点で同性の関係性であるBLと百合の非対称性が分かります。このことから、百合はBLに比べると、それでも同性であるあなたを選ぶという、ある種、切羽詰まった感じが希薄です。つまり、百合であることは、BLであることよりも障害が少ないと言えるかもしれません。

 

 ここでぼくが考えたいのは、女性であること、女性同士であることの優位性です。ここまで書いてきたのは、もしかすると百合は同性愛としては比較的受け入れやすいものではないか、ということでした。

 ですが、「やがて君になる」はその百合(ここは単純化して女性同士の恋愛という意味で書いていますが、それについての葛藤もまた百合に含まれるものでしょう)ではいられないということを描いています。

 これはつまりどういうことなのか。ここからは少し現実のデータを見ながら、考えていきます。(とはいえ普段、データを扱うことには慣れてないので、多々不備があるとは思います)

 

いつか女性が女性を選ぶ社会

ええと、これからつまらない話が続きますので、先に結論を言っておきますが、これからの社会は多様性が広がり、同性愛などへの偏見も少なくなっていくでしょう。また女性の権利が向上し、相対的に男性の地位が下がっていきます。そして、恋愛不可能性という文脈の中で、女性が性的趣向とは関係なく、人生のパートナーとして女性を選ぶということも、別段おかしくない世の中になるのではないか、という話です。

以下、太字まで読み飛ばしてもらってかまいません。

 

#6.2e 男の子と女の子 (全体)

 こちらは、子供を一人だけ持つなら、男女どちらが好ましいかというアンケートの結果です。(本当はグラフにして、画像を出すのが正解だと思いますが、グラフが作れないので、気休め程度にリンクを張っているのだ、とでも思ってください)

 この表を見てもらえば分かる通り、近年日本では、子どもには女として生まれる方が得だという考えが強くあるようです。また、

図録▽幸福度の男女差(推移と国際比較)

 こちらの調査では、女性の幸福度が男性のものを上回っています。

 

 ここでぼくが言いたいのは、女性であることは社会からも認められる一つの価値だということです。幸福度調査が示すように、女性は社会から幸福を受け取りやすく、またたった一人の子どもならば女性である方が好ましいと考える人が多いことからも、そのような傾向を、社会全体が認識していると言えるのではないでしょうか。この女性であることの受け入れやすさというのは、会社の受付係に女性が多いことからも、ある程度、感じることが出来るかもしれません。

 

 そして、次に考えたいのは女性の持つ、結婚に対する傾向です。

結婚相手に求める年収、男性と女性ではこんなに違う!|アニヴェルセル 総研

 端的に、男性が外に出て働き、女性が家を守るという価値観が戦後から支配的だった日本において、女性が扶養主である男性に収入を求めるというのは、おかしな話ではありません。ですが、

1-2-8図 共働き等世帯数の推移 | 内閣府男女共同参画局

 このグラフが示すように、専業主婦は日本のスタンダードではなくなっていくでしょう。当然、どこかで生活の一スタイルとしては残るとは思いますが。

 さて、このように女性の社会進出や、また権利向上が進むことで、結婚に求める価値や結婚の形態が変わっていくことは、当然予想されます。とはいえ、現在の傾向として、女性は男性に対して、同程度の年収を期待しています。

「パワーカップル」世帯の動向(1)-夫婦とも年収700万円超は共働き世帯の約2%でじわり増加。:基礎研レター | ハフポスト

(あまりいい引用の仕方ではないですが、総務省「平成28年労働力調査」における、年収階級別の図を見てください。リンク先、図表2)

年収別の結婚率・未婚率|年収ガイド

https://twitter.com/wildriverpeace/status/1006547923448938497

 男性にとっては年収300万円以上であることが結婚できるかどうか、一つの指標になっており、女性の求める年収を越える男性というのは実に限られた数だというのが分かります。また、これからの将来、男性の未婚率は三割にも及ぶという推計もあります。

平成27年版厚生労働白書 - 人口減少社会を考える - |厚生労働省

 

 これらの現状に対し、女性の社会進出が中々進まないとされる日本で、女性の地位向上がより進むことによって、男性の地位は相対的に下がることになります。それは、これまで下駄をはかされていた男性が、実質的に階級を下げていくということです。これはトランプ大統領の支持層とされたヒルビリー、つまり先進国の中間層が、発展途上国貧困層の浮上によって、その分だけ沈み込んでいったのと同じ構造です。

 さて、女性は自分と同等かそれ以上の収入を結婚相手に求める傾向があり、それを満たす男性というのは非常に少なく、またこれから減少していくでしょう。

 そんな中で、女性が性的趣向とは別の考えで、女性を人生のパートナーを選ぶという選択肢は十分にあり得るのではないでしょうか(まあ現実そうはならんやろ、とか思います。段々書いていて、訳が分からなくなってきてます。長々と書いたくせに申し訳ないですが、仮説に仮説を並べた話なのでね。男性側の都合とかは全く無視してますし)

 

 まあ、このにわか仕込みの社会学もどきもこれで終わりにしますので、ちょっとまとめておきますね。

・女性は社会的に受け入れられやすい存在で、抵抗感が薄い

・結婚において、年収というバロメータが男性不利に働いている

・女性が男性を結婚相手に選ぶことが陳腐化する

・百合が始まる

という感じでしょうか。頭の中で考えていた時は、もう少しまともそうに見えたんですが、もう四千文字近く書いてるので、最後まで書き切りますね。

 

百合の不可能性の詳細

 ええと、こんなに長々と書いて、何を言いたかったのかというと、百合の不可能性について考えるために、現実で女性が結婚相手に女性を選ぶ可能性がある、という仮説を打ち立てた訳です。では、なぜ百合はダメなのか、女の子同士ではいけないのか。それは別にダメな訳ではないのです。ダメだと思っている、ただそれだけで、百合は禁忌のものとして扱われます。そうではないことを証明するために、女性が女性を選ぶなんて話をしたんです。そういう道はあるんだ、と。 

GIRL FRIENDS : 1 (アクションコミックス)

GIRL FRIENDS : 1 (アクションコミックス)

 

 この作品、とても面白いのですが、物語のサスペンスの作り方としては、女の子同士ではいけないのではないか、という違和感から、お互い好き合っているにもかかわらず、どうにも恋愛に踏み込んでいけない、それをどうするのか、という話になっていて、ジャンル経験が浅いぼくなりに原初的な百合の在り方じゃないかな、と思います。ここではまだ、女の子同士で恋愛は成り立ってはいけない、という暗黙のルールと戦っていますね。 

  最近の作品になると、どうもそういう雰囲気は薄いんじゃないかというのが、ぼくの見立てです。けれど、その百合の恋愛不可能性を上手く利用して、物語が作られている気がします。お互いが好きであることは認めあいつつ、それを周囲に知られてはならないという形は、上の原初的な百合の応用のように思えるのです。

 とはいえ、ぼくがこういう浅はかなジャンル論をぶっても仕方がなくて、そういうのはもっと詳しい人がしてくれるはずです。

 

 そこで「やがて君になる」です。侑、燈子さん、佐伯先輩の三人は実に巧妙に、思いが暴露され、関係が恋愛へと進展してくのを避けるように設計されています。主軸である侑と燈子さんの関係はもう少し複雑ではありますが、侑の「わたしは星に届かない」などを考えると、やはり恋愛が出来ないように仕向けられている気がします。百合作品といえば、恋愛関係になりそうでならない感じがまず浮かびますが、この作品では、どこかストッパーがかけられていて、絶対にならないだろうという雰囲気があり、どうも不穏です。

 女の子同士で恋愛は成り立たない、成り立ってはいけないという中で、それでも百合であるということはどういうことなのか。

 侑に対しては、二重の意味で恋愛を知ってはいけないという制約が課せられており、その一つは燈子さんから侑に対してであり、もう一つは物語の解法として、恋愛が分からないから人生がつまらないという人に対して、じゃあ恋愛が分かればいいよね、というのはまず答えからして間違っている、という問題があるのですが、やはり百合の恋愛不可能性について回答するとなると、それは上で書いたように、好きでなくとも人生のパートナーになれるよね、という所に行き着く気がするんです。

 侑と佐伯先輩が、燈子さんを軸にして、対称になっていると思うのですが、今回、佐伯先輩が、知られれば関係が壊れてしまうような好きでも、一緒にいることは出来る、という地点へ辿り着いたのは、やはりそういうことじゃないかな、と。

 ぼくには語り切れないのですが、ここに何か大きな問題が隠されているとおもうんですよね。そこがBLと百合の違いの出る所かな、と。多分、「それでも好きになる」ことの質が違うんですよ。これからも「やがて君になる」気にしていきたいです。

 

 言い訳というか何というか、本当は女性が女性を選ぶという部分で終わりのつもりだったんですけど、思っていたよりも考えが暴走していて、どうもオチが付かず、こんな風になってしまいました。最後まで読んでくれた方、いらっしゃったら申し訳ないです。用語も、恋愛不可能性から、百合の不可能性に変わっていて、論旨もぐちゃぐちゃですね。あの、自己言及しないとやってらんないんです。放送終わってから四時間もかけて書いたので、どうにかしておかないとおかしくなりそうだし、まあ、そんな感じです。

 

夜中じゃなくて、朝の四時の十一月