感想日記 夜明けの青

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感想「宙のまにまに」世界の手触りを失った男の子のカウンセリングの物語

2005年、連載開始の作品とのことです。ふらっと寄ったBOOK・OFFで、全巻揃っていたので買ってみました。タイトルは知っていたけれど、どんな話なのかはまったく。

それで、読んだ感じとして「すもももももも」に似ているな、というかテーマは同じじゃないか、と思いました。「すもも」も連載開始が2004年と、この二つ、かなり近い時期に連載してるのも、偶然ではないのだな、と。

じゃあ、その共通した感じとは何かというと、それはタイトルにも書きましたが、世界の手触りを失った男の子のカウンセリングの物語、ということです。
といっても、世界の手触り、カウンセリングって何? という話ですよね。

まず、ここで確認したいのは「まにまに」も「すもも」も共通して、幼馴染みの女の子が、達観して冷めてしまった男の子を未知の世界へ連れ出す、というフォーマットになっていることです。
そして、さらに女の子は変人であり、男の子は世間の常識を体現しているような描写であることも、注目したいです。(「すもも」の方はギャグ色が強いので、一くくりにするのは難しいですが)

指摘したこの二つは、2019年を生きるぼくらにしてみると、少し、いやかなり古臭く感じられるのではないか、とぼくは思います。
「まにまに」の美星は、落ち着きがないことと星が関わると暴走気味になることから、少し変わっている扱いをされており、主人公の朔に度々、注意を受けます。
が、今のぼくらの生活を見ると、美星のような少し変わった人間、例えば、魚が好きな人など、少し変わった、何かが好きな人たちというのは、実益があるかどうかに関わらず、広く受け入れられているように思います。
ええと、何が言いたいかというと、作中で朔が「目立たずなめられない立ち位置」のキープに専念するのに象徴されるように、少し前ならば、星が好きなことに何の意味があるの? 天文学者にでもなるの? などの言葉で一笑に付されていたような、何かのオタク、マニアであること、何かを好きであること、そのものの価値が現代の日本では認められている、ということです。
余談ですが、美星たちの大学受験をクライマックスに持ってくる辺りも、時代の変化を感じます。

かなり長くなりましたが、この差異を前提に少し話をしていきたいと思います。

さて、ではようやく世界の手触りとは何か、という話に入れます。
それは、ひどく抽象的にいえば、この世界で生きる意味と言えると思います。ではでは、生きる意味とは? それは人生における喜びではないでしょうか。

また、話は遠回りしますが、先程話したフォーマットの件、つまり「女の子が男の子を連れ出す」ですが、これは時代を席巻した、ある物語群に似ていると思いませんか?
ぼくが思い浮かべたのは、セカイ系です。
セカイ系での情景は、世界を救う意味、戦う理由、さらにいえば、生きる意味をなくした男の子が、彼の代わりに戦う女の子を前にして、立ち竦むというものでした。
これは、「まにまに」と「すもも」における朔・美星、孝士・もも子の関係に相似していると思います。

彼ら、朔と孝士は生きる意味を失うというには大げさですが、繰り返す日常に擦りきれ、人生の目標を見誤り、人間関係に踏み出せずにいます。いえ、踏み出さない理由を、大学進学や目立たずなめられない立ち位置などに転嫁して、誤魔化しています。

そこへ人生の喜びを体現したような女の子がやって来るわけです。上述したように、星を好きなことに何の意味があるの、という問いは既に無効化しています。星を好きなことは楽しい、そう答えるだけで充分だということを、今のぼくらは知っているからです。
規範から離れてはいけない、という呪縛を受けていた男の子たちを、ただ楽しいだけで人生は充分なんだ、と解放していく様子は、セカイ系への一つの解答のようでもあります。

そして、宙のまにまにで最も象徴的だと思うのが、見上げるのが星だということです。また、人生の喜び、つまり自分が今一番したいことに無自覚であるのが、朔とフーミンの眼鏡コンビであることも、果たして偶然の一致であるのか、はたまた作者の狙い通りであるのかはさておき、これもまた象徴的です。

何を言っているのかというと、星というのは見る場所、見る季節、明るいか暗いかでも、見えるものが変わってきます。星の数ほど、という比喩があるように、目には見えない星を含めれば、本当に無限に思えるほど、空には星が輝いているはずです。
それは楽しいこと、辛いこと、人生における意味あることの象徴であり、線を結び、星座をそこへ浮かべるのは人間模様の如く。
そして、眼鏡コンビは目が悪いからこそ、それを見つけるのに時間がかかってしまう。
長らく転校生であり続けた朔は、それ故に人間関係に踏み出せずにいた訳ですが、それも時が経つにつれ、天文部の部長となり、高天ネットとの繋がりを始めとした様々な関係へ漕ぎ出していくことが出来た。
そんな朔と美星との出会いは、カウンセリングの物語の始まりだったのではないか、というのが今回の感想でした。

風の冷たい三月の春