感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

雑感「さらざんまい」生きがいと戦いは別

ちょっと検索かけると、考察がバーッと出て、自分でこういうことをかくのは嫌になります。

 

さて、アマゾンプライムで一話を見ました。スマホの画面で見るのは限界だと思います。

さてさて、そんなことは置いといて、かなり謎に満ちた「さらざんまい」の世界ですが、一話を見て、まあ少し考えたことを自分なりにまとめたいと思います。

 

 えーと、今作、重要なカギを握っているのが箱。欲望は箱、欲望の箱、などの言葉がハコゾンビと決闘する前のシーン、人力車で滑走する場面の背景に書かれていたり、「欲望は君の命だ」のフレーズがホームページを飾っていたりと、重要というのは分かりやすいほど分かりやすいですね。

 

 で、箱って何かって言うと、つまり欲望で、じゃあそれは?

 ぼくの解釈では「生きがい」という言葉になりますが、もう少し世の中に浸透している言葉だと「好き」になるんじゃないですかね。東京モード学園のCMとか、最近だと「ケムリクサ」でも「好き」という言葉が使われていました。

 

 で、何でこれが出てきたのか、というと、バブル崩壊以後から社会のレールというものが崩壊し、決まった規格の中で穏やかに暮らすということが否定されてきたのが、原因というか、影響の一つじゃないでしょうか。

 つまり、寄らば大樹の陰で、社会の大多数でいることで生活の保障を受け、少しくらい嫌なことがあっても、そうしていることが将来的な利益でもあった時代は終わりを告げて、結局、会社は個人を守ってはくれないし、いつ落とし穴にはまって、死ぬかも分からない世界で、あなたは何をしますか? という問いなのだと思います。

 一寸先は闇の世界で、それでもするべき価値のある事、自分がしたいと思うこと、それは自分の好きなことに違いないはずです。

 

 そこに早くから答えていたのが、アイドルものだとぼくは考えます。

 彼女たちが示したのは、憧れやキラキラ、好きなものに全力で取り組んだ先には、こんなに素敵な場所(ステージ)が待っているよ、そして、そこにはお互いを支え合い、時にぶつかり合った仲間がいるんだよ、という好きのいわば光の部分でした。

 ただ、アイドルものにも限界があって、それは敗者を描けないことでした。

 これについては過去記事を書いているので、興味があれば読んでみてください。

 

madderred100.hatenablog.com

 

 

madderred100.hatenablog.com

 

 で、ここにあった限界とはつまり、彼女たちの戦いは「好き」の成就に直結していた、という点です。

 どういうことかというと、アイドルたちが勝利するとは、すなわちステージに立つ、ということです。彼女たちはステージに立ち、パフォーマンスをするために、日々苦しいレッスンをこなすわけです。そして、オーディションを経て、勝利を掴み取る。

 これは「好き」の光の部分な訳です。好きだから、いくらでもできる。時間を忘れて、没頭する。没頭するからパフォーマンスは磨かれ、オーディションに勝利しやすくなる。

 

 ネット上のクリエイター指南などを見ていると、必ず問われるのは「あなたの好きは何ですか?」です。つまり、何か創作をするとき、あなたは他人に迎合して、自分を押し殺し、苦しくなっていませんか、ということです。せっかくの創作なのだから、もっと自由にやりましょう。あなたの好きにしていいですよ、と。

 ぼくはこの視点は大事だとは思いつつ、片手落ちの視点だと思います。まあ、創作に対する立場によっても、変わる事ではありますが。

 というのも、結局、自分の創作だからといって、好きだけで評価を受けること自体が稀だからです。自分の好きを突き詰めたら、沢山の人から反響を頂きました、という状況そのものが特殊であるか、そのクリエイターが才能を有しているか、とぼくは考えます。また、自分の好きだけで自己完結できる人間も同様に。

 好きとは究極すれば、自分一人だけに通じる秘密のコンテキストです。それが中々伝わらない、伝えられないという悩みが他方にはあるから、ぼくは片手落ちだと考えています。

 

 話を戻しますと、アイドル達にはそういう葛藤はない。日々、伝えるためのトレーニングをしているのだから、当然ですね。彼女たちに置いて、生きがいを得ることと戦うことは直結しています。ですが、これは本当に稀なことなんですね。

 

「さらざんまい」で描かれたように、ゾンビと戦うことで欲望(箱)を取り戻すことはできるけれど、箱を満たすことはできません。ゾンビに勝利したからといって、生きがいを得ることはできないということです。

 これはぼくらの生活に置き換えれば、すぐにわかることで、ぼくらは日々の糧を得るために、仕事をして、お給料をもらっていますが、一部の人を除いて、好きを仕事にしている人はいません。むしろ却って、そういった戦いに身を委ねているからこそ、好きを見失った人も少なくないのではないでしょうか。

 

 余談ですけど、ぼくはこれは恒常性の戦いと呼んでいます。或いは恒常性を得る戦い。変わらない今日という明日を手に入れるための苦闘。村上春樹さんの社会的雪かきに似ていると個人的には思っていますが、つまりはそういうことです。今を過ごしやすくするために掃き掃除をしたり、洗濯物を干したり、そして会社に行ったり。

 

 もう一度、話を戻します。

「ケムリクサ」でもそうだったと思うんですが(違うかもしれませんけど)「好き」を得るための戦いに勝利すると、ぼくらは無条件でその「好き」を手に入れられると考えている節があると思います。

 ですが、先で例を挙げたように、好きを得るための戦い(仕事)をはちゃめちゃに頑張りすぎたせいで、却って「好き」を見失ってしまう。或いは、戦いには勝ったけれど、「好き」を突き詰める元気はない、ということは多々あると思います。

 「好き」を得るまでは一つの戦いではあるけれど、「好き」を手に入れた先も、また同じように、それを実らせるための戦いがある。これまでは好きを探そう、好きを見つけたら無敵だよ、と物語は語ってきたわけです。けれど、そことはまた別のレイヤーがあるとした「さらざんまい」は、ある意味で「ケムリクサ」の一つ先を描いていくんではないでしょうか。

 

 と、今回「さらざんまい」の一話を見て、ぼくはそういったことを思いました。この記事で書いたことは、好きが報われない底辺クリエイターとしてのぼくのひがみが多分に含まれています。

 

 色々書きましたが、「さらざんまい」これからも楽しみです。

 

また二時間かかったブログ記事、四月の夜