感想「映像の原則」著 富野由悠季 クリエイターにとっての情報の取捨選択
最近、もっと映画やアニメを楽しみたいと、絵コンテの勉強をしています。さらに言うと、趣味の絵(小説を書いて、それを推敲するのに印刷するんですけど、コピー用紙の裏が余るので)も上達したらな、とかいうめちゃくちゃ適当な理由で、コンテについての本を読んでいます。
といっても、三冊しか読んでないんですけどね。アマゾンに勧められるまま、マスターショット集みたいな本を三冊買ったら、一万円したんです。もうお金ないです。
書いてあることは本当に単純明快で、映画やアニメというのは究極すると、映像(カット)の集合体であり、脚本(物語)やキャラクターというのは、もちろん映像を構成する一つのものであるけれど、その原則的な重要性からいうと、やはり映像を上手く使いこなさなければ、映画じゃないんだ、ということだと思います。
とはいっても、映像と物語、キャラクターは切り離せるものでなくて、一であり全である、また全であり一であるという理解ではあります。
本当に書いてあることは原則で、映像を作るとはカットを繋げること、その意味の繋がりをどう付けていくのか、という一点だけです。
もうそれ以上に言うことはないんですが、これは映像に限らず、文章もそうだな、と思ったので、このブログを書いています。
というのも、ぼくは映画は総合芸術だ、という通説を受けて、音楽も使えて、俳優もいて、小説は映画に勝てないかもしれないな、と常々感じていたんですが、今回、この本を読んで、ぼくらも彼らもやっていることは一緒なんだ、ということに気付けたのは、ちょっと嬉しかったです。
つまり、映画作りも映像というままならないものを扱って、どうにか形にしているのかもしれない。小説は文章であり、単語であり、言葉なんだ。それ以上ではない、という認識でいましたが、それは映像もまた同じなのだろう、と。
この本で書かれているのは原則なので、結論としては「よく考えて作れ」以上のものはないと思います。が、その時、何をベースに考えていくのか、というとそれは表現媒体でしかないのでしょう。
ぼくの場合は文章であり、富野監督にとっては映像だった。
前を受けて、今があり、次へと繋げていく。連続性と、それに付随する意味の羅列。それらを決定するのは物語やキャラクターではなくて、映像であり文章である。つまりはそういうことです。
一つ一つ考えるとめちゃくちゃ難しいことやってますよね。場面の説明、風景描写、心理描写、キャラクターの説明などなど、全部文章でやるんですから。