感想「スイスアーミーマン」キモくてモテないオタクの希望とは?
かなり面白い映画でした。とはいえ、テーマ的にどんづまりだし、これで共感を得るには、射程が短くて、なかなか難しいだろうな、という印象。あえて、このテーマに挑戦したであろう監督には敬意を表します。表現も素晴らしかった。
ところで、キモくて金のないおっさんという言葉を知っていますか?
少し前にネットで話題になっていたと思うのですが、主に政治的な問題を孕んだ言葉です。
「キモくて金のないおっさん」と「見えない弱者」の話をしよう | 文春オンライン
詳しくはこちらを見てもらえれば、と思いますが、かいつまんで話すと、誰からも共感を得られない弱者を、どうやって救うのか、という話です。
で、なぜこんな話をするかというと、「スイスアーミーマン」においても同じ話をしているからです。
スイスアーミーマンと検索をかけた時、サジェストに「ラスト意味が分からない」とありました。これはぼくの牽強付会だといいのですが、このサジェストに問題は集約しているのではないでしょうか?
おひとり様文化が浸透している日本においては、キモくて金のないおっさんが議論の訴状に上がりますが、カップル文化の根強い海外、特に欧米においては、同じ位置に占めるのは、恐らく今作でも取り上げられている、キモくてモテないオタク、となっています。
そして、そんな彼らにどうやったら生きる希望を与えることができるのか、というのがこの映画のテーマだとぼくは思いました。
彼らは孤独であり、それ故に誰にも助けてもらうことができない。そして、孤独だからキモくてモテないのか、キモくてモテないから孤独になったのか、卵と鶏どちらが先かという話になりますが、彼らの孤独というのは、彼ら自身の属性から発生しています。
もう少し詳しく見てみましょう。
キモくて金のないおっさんは、男性性の持っている攻撃性からまず孤独に陥りやすいのですが、その中でも、金がないという部分が非常に大きく作用します。
どういうことか。つまり、年功序列の制度が整っていた日本において、おっさんが金を持っていないのは、おっさん自身に問題があるとみなされてしまうのです。おっさんなら当然、金を持っているはず。けれど、ない。ということは、彼に問題があり、キモくて金のないおっさんへと変わり果ててしまったのだ、と。
キモくてモテないオタクも同様です。恋人がいるのが当たり前。けれど、彼にはいない。そして、導き出される結論は、彼に問題があるから恋人ができないのだ、と。
こういった考えは、一部では正鵠を射ているかもしれませんが、人間が生き物である以上、周囲の環境に影響されることも考慮しなければいけません。例を挙げるなら、今、金のないおっさんとなった世代は、就職氷河期世代と言われていました。彼らが正社員として、キャリアを積むことができなかったのは、あの当時の不況があったから、と説明がつきます。
日本の作品群において、彼らを救う方法というのは既に示されています。
一つは「けいおん」などに代表される日常系。そこに描かれている友情関係。救われないもの同士が集まり、友人となることが、彼らを孤独から遠ざけ、幸福度を高めます。
次に、なろう小説で隆盛を極めた異世界転生もの。環境を変え、自分の所属する文化圏を抜け出して、自分の住みよい場所へ移住する。批判されることが多いですが、これもまた立派な回答です。
そして、「バ美肉」正確には、バーチャル美少女受肉です。これは上にあげた二つをカバーするものだと思います。自分のキモくて金のないおっさんという外見を脱ぎ捨て、フラットな状態で人間関係を構築する。
さて、話が長くなりました。作品の方へ戻りましょう。
「スイスアーミーマン」が、キモくてモテないオタクがどうすれば生きる希望を持てるのか、という疑問に答える時、選んだのは友人を作ることでした。しかも、既に死んでしまった友人を。
ラストシーンにおいて、その表現は頂点に達します。
友人間にしか通じないコンテキストーーオナラを通して、殻らは互いの友情を確かめ合います。常識の中で生きることを選んだ人々に苦い顔をされながらも、彼らは自分たちの言葉――オナラで友情を分かち合う。
最後、メニーは現実を離れ、水平線の彼方へと旅立っていきます。ぼくは柳田國男ではありませんが、メニーはニライカナイ、つまりは理想郷、存在しないという名を冠するユートピアへと向かったのでしょう。
変人が変人として生きられる世界へ。
一月ぶりの記事 六月