感想「若おかみは小学生」物語のかたち
これも、二週間ほど前に見たので、曖昧な感想です。
突然ですけど、エンディングの藤原さくらさんの「また明日」がめっちゃ名曲ですね。思えば、「若おかみ」との出会いは、ブログレヴューとかでなく、「また明日」を使ったニコニコ動画のMAD作品でした。
閑話休題。
今作は、おっここと関織子が、両親の死を機に、花の湯温泉に引き取られ、数々の出会いを繰り返しながら、両親の死を受け止めるというストーリーになっています。
今作の素晴らしさについては、多くの方が語っているだろうと思うので、ぼくはぼくなりに気になったことを。
全二十巻ある原作を基にしたということで、映画は各エピソードをつまみ食いする形で使用しているとのこと。物語全体は、両親の死を受け入れるというクライマックスに向かって、おっこの心情を着実に積み重ねているので、数珠つなぎ的という感想はまったく持ちませんでした。
一方で、若おかみとして奮闘する日々をピックアップして、一本の線として流れる時間軸を櫛の歯状に繋げていく、という形に、ぼくは注目したい。
ちょっと何を言っているか分からないと思うので、説明を。
これの前に、「日本のいちばん長い日」を見たので、その対比が分かりやすいと思います。「長い日」は、本当にあった出来事を描く映画で、連綿と続く日本の歴史のとある一日を描いています。これは、「若おかみ」の旅館での日々を飛び石的に見ていく手法と対照的に思います。
「長い日」はロールケーキをここからここまで、と決めて切り取ったような形をしているのに対し、「若おかみ」は上に書いたように、櫛の歯状に(凹凹凹)に時間をトリミングしています。
ぼくにはこれこそが、物語の本来の形のように思えて仕方ないのです。本来の形、というと語弊がありますが、まあぼくの主観の話なので。他に言い換えるとすると、ぼくにはない物語の形でうらやましい、でしょうか。
もちろん、物語の基本というのは省略なので、「日本のいちばん長い日」も当然、8/14~8/15にかけての時間を上手く切り貼りしているのですよね。そうでなく、誰々が起きて、顔を洗って、歯を磨いて、朝ご飯を食べて、とやっていたらキリがないですから。
多分、二つの違いは、巨視的か微視的か、という問題なのでしょうけど……。
ぼくは物語が書けないので、最近は物語が面白いって何だろう、とよく首をひねっています。頭ではありません。それで、少し見えてきたのが、物語は時間を圧縮したり、省略したりして、観客を飽きさせないように、上手くテンポを作っているという所です。
よく、竜退治の物語は治水の比喩だ、ということがありますよね。治水というのは思いついた時にぱっとできるものではありません。何年、何十年とかけて、少しずつ土を掘り、へりを固めて、作り上げていくものです。それを一気呵成、痛快に魅せるものが物語なのだ、と。
けれど、この話、何かを語っているようでいて、実は創作については何も語っていないに等しいのです。ぼくが知りたいのは、治水をどのようにしたら、面白い物語になるのか、というその中身なのですから。治水→竜退治の、その矢印の中です。
今回、「若おかみ」を見て思ったのは、そんなことでした。一つのテーマを背骨に、色とりどりのエピソードを見せていくスタイルは、物語のかたちの一つの正解なのかな、と。エピソード同士は有機的に、物語に結び付き、クライマックスの結論へと至る。この有機的という部分が、物語の根幹ではないかな、とぼんやり考えています。
最近、技術論みたいなものばかり書いていて、自分でもつまらないです。
熱暑の八月の夜