感想日記 夜明けの青

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感想「メタモルフォーゼの縁側」著 鶴谷香央理 思いやりは雪だるま式に

 

 

 祝、完結。

 「メタモルフォーゼの縁側」と短編集「レミドラシソ」のネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 今作は、オタク談議に憧れる高校生の佐山うららと、夫を亡くし一人で書道教室を開く市野井雪の二人がとあるBL漫画をきっかけに、年の差58歳のささやかな青春を描く物語になっています。

 なかなか勇気をもって踏み出すことのできないうららと、それを大人なりの経験や寛容さで受け止める市野井さんの、あたたかな交流が胸を打つ作品なのですが、このあたたかさや、やわらかさは何なんだろうかな、と思い、この記事を書いています。

 

 キーワードは「気付き」と「親切の往復書簡(恩返しとか報恩とか考えたんですけど、しっくりきませんでした。言いたいことはブログタイトルにあるとおりで、思いやりのやりとりが行き来すること)」です。この二つが、鶴谷さんの作品の基底に流れていることで、独特のやわらかさが醸し出されているのではないかな、と思います。

 

 

 さて、では「気付き」とは何でしょう。

 それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知る。気がつく。
 意識を取り戻す。正気に戻る。気がつく。

 デジタル大辞泉からの引用になります。ぼくが今記事内でおもに使うのは、もっぱら1の意味。鶴谷作品では、あることに気付くことで、物語が始まっていきます。

 少し余談気味ですが、セレンディピティという言葉があり、それの意味は、偶然に思いがけない幸運な発見をする能力、なのです。鶴谷さんはこのセレンディピティがとても高い人のように思います。

 

 で、この「気付き」がについて、鶴谷香央理さんの短編集「レミドラシソ」で見ていきましょう。この一冊は初期短編集というだけあって、濃度が非常に高く、気付きの一冊と呼んで過言ではないのでは、と思います。

 まず「吹奏楽部の白井くん」#1 たった4ページの漫画ですが、コンクールで金賞を逃し、落ち込んでいる波江野くんをはげます、という内容になっています。ここで重要なのは、波江野くんをはげますことを、一番初めから目的にはしていないということです。木琴(鉄琴?)を運んでいる最中だった白井くんと安達さんは、一休みのあいだに、落ち込んでいる波江野くんに気付く。その流れで「The entertainer」を演奏し、波江野くんは元気を取り戻す。

 これは、まず初めに波江野くんに気付かなければ、起こり得なかったことで、その周りに向ける視線こそが「レミドラシソ」「メタモルフォーゼ」に通底する魅力だと思います。

 

 もう少し見ていきましょう。#2のドラムとコンガのどちらを演奏するかを選ぶ白井くんと安達さん。安達さんははじめドラムを選ぶのですが、部活後の遊びの中で、ドラムをたたく白井くんを見て、白井くんの隠された気持ちに気付きます(白井くんがドラムをたたいた後、オーマ先輩が「いやでも方向はあってる」と否定しない姿勢が好きです)。

 次に、#3「76本のトロンボーン」を演奏することになった吹奏楽部。数学の追試が決定し、自信喪失していた安達さんが登校中のバスのなかで、「76本」の英語詞を翻訳しているふみさんに出会います。「76本」はあるミュージカルの歌だということをうれしそうに、頬を染めて話すふみさんを見て、安達さんは「歌もいいけど ふみさんがいいよ」と心の中で呟きます。

 その場面の直前 ページいえばP30の、バスの横を楽団がマーチングしていく見開きの美しさは、それを想像できることへの力強さに支えられている気がします。

 

 「気付き」とは、決して「絶対の世界の真理(かっこつき)」に目覚めるのではなく、むしろ世界の多層さに目をやることではないかな、と思います。バスの横を楽団が行進する。世界にはそういう風に想像力が横溢していて、無数に絡み合っている。同じ景色を見ても、同じ感想を抱く訳ではないのと同じように、そこに幻視するものもまた、人によって違う。

 けれども、重要なのはそういう頭でっかちな部分ではなく、「気付く」こと・世界の新たな側面を見つけることは、楽しいと伝えてくれる鶴谷さんの漫画の、凛々しい面持ちの方だと、自分は思います。

 

 

 そしてそして、そういった「気付き」が表現として煮詰まったのが「まめごはん」から始まる「あやとかなのお話(仮称)」。子どもの視点から生活を見つめる、センスオブワンダーに溢れた作品で、仏壇のある部屋が怖かったり、お鍋にさじを落としただけで大事件だったりと、大人になるにつれて薄れてしまった感覚を、むんず、と掴んで見せてくれる姿が、あたたかいと思うのだけれど、一方でたくましいとか立派な、しっかりした感覚を覚えて、頼もしいです。

 まっすぐじゃないコマ割りが、はじめは読みづらいと感じるのですけど、読み進めていく内に、読みやすくならないでほしい、慣れてしまいたくないと思うのも不思議な感じがして好きな作品です。この読みづらさは「水道の水」以降、方言という形で(コマ割りが整理された一方)引き継がれていて、これも表現として素晴らしいと思うのですけど、割愛。

 ここで言いたいのは、一連の「あやとかなのお話」が「気付き」そのものの物語になっているという点。「白井くん」では気付きは物語が始まるきっかけであり、ぽんとステップを踏むための助走的であったわけですが「まめごはん」で顕著なように、飛行機とまめごはん、空想と現実が重なり合って、それ自体で一つの世界を作り上げている。先にあげた「76本」のマーチングの見開きが、今度は物語の形で描かれている訳です。

 

 「レミドラシソ」最後にあげるのは「ル・ネ」。この作品は個人的には「気付き」の極北としてあるのではないかな、と思います。

 先に書いたように「白井くん」「まめごはん」などでは、気付きが物語のきっかけであったり、気付きそのものの話だったのが、「ル・ネ」になると気付きに感情が伴って、愛おしさを醸し出している。

 「ル・ネ」の最後の2P

朝から家の手伝いで 鉛筆をいっぱい削ってきた ふたばの指の匂い

国谷のコートの しずかな お線香の匂い

スニーカーから すなぼこり

渡ってくる風

 家業、あるいは親の職業への逡巡が、苦しく、けれど、自分にとって重みのあるものであるからこそ手離せない。その悩みは、主人公だけのものではなく、あるいは誰にでもあるものだと気付かせてくれる素晴らしいシーンで、ここでは「気付き」には「それまで気にとめていなかったところに注意が向」いたり、「意識を取り戻す」という意味以上のものがこめられています。

 

 「ル・ネ」の主人公にとって、匂い(能動的に受容するかどうかを選べない感覚の一つ)としてやってくる気付き、世界の多層さは、自分では動かしようのないとしてある。それは物語中、非常勤の佐野先生の香水を再現しようとしたことでも分かる。

 思い出を形あるものとして残そうとして、失敗した。どれほど変容に敏感であっても、変化する世界を押し留めることはできない。それは「気付き」そのものの無力さでもあります。

 

 

 

 さて、このように「レミドラシソ」から、鶴谷作品の魅力の一つとぼくが考える「気付き」について語ってきました。ですが、最後に書いたように、それは変化していく世界の前では無力なのです。

 けれど「メタモルフォーゼの縁側」はその変化に対する無力を、正面から押し破った作品ではないか、とも思います。ここで、上にあげた「親切の往復書簡」の出番な訳です。1話から順にみていきましょう。

 

 うららと市野井さんの出会いのきっかけはコメダ優先生の「君のことだけ見ていたい」という作品からで、第1話では市野井さんと「君見て」の邂逅を描いて終わります。二人の直接の出会いは第2話の、「君見て」3巻を買い求めに来た市野井さんが、書店員として働くうららに声をかける場面になります。

 ここで、うららは自らの肩をもむ市野井さんを見て、椅子をすすめます。これだけなら小さな親切で終わってしまいそうなものですが、実は「メタモルフォーゼの縁側」はこの椅子をすすめたところから、始まるのです(本当か~?)。

 

 まあとにかく、この一件でうららと市野井さんにつながりがうまれたことは確かで、第3話、うららは自らすすんで「君見て」の入荷を知らせる電話を市野井さんへします。第2話のうららの親切は、市野井さんがうららのシフトを尋ねるという形で返されます。その後、うららは、バイトでいいことがあった、という訳ですから。

 さらに第5話では、喫茶店でついにオタク談議へ向かう訳ですが(コメダ先生だから、コメダ珈琲店……なのですよねえ)何しろ、はじめての経験でうららは上手く話すことができなかった、と市野井さんに謝罪します。だけど、そこで終わらないのがこの作品。後ろ向きではありますが、うららは、上手く話せなくてすみません、でもうれしかった、と素直な気持ちを市野井さんに話します。それを受けて、市野井さんはメールでのやりとりを提案したりして、親切は互いの間を行き来します。

 そんな風に、小さな小さな思いやりのやりとりが繰り返されるというのが「メタモルフォーゼ」の基本的な構造になっています。そして、それは雪だるま式に、徐々に徐々にかけがえのないものになっていくのです。

 

 その転機になるのが、第9話。同人誌即売会へ行くことが決まり、ここから物語は二人だけのものではなく、二人を結び付けた、作品をめぐる場の話に広がっていきます。

 少し飛んで、第20話。二人の出会うきっかけとなった「君見て」の作者、コメダ先生のパートがある上に、日常回と呼んで差し支えないだろう、21話にも、コメダ先生のアシスタント(というよりお手伝い?)の女性が、町で市野井さんに気付くという徹底ぶりです。同人誌即売会に参加することで、うらら・市野井さんとコメダ先生の距離が縮まっていくのです。

 

 

 

 さてさて「親切の往復書簡」を通して、大ざっぱに二巻分ほどの内容を見てきましたが、ここでもう一つ紹介しておきたい「メタモルフォーゼ」の特徴があります。

 それは作中作による気持ちの代弁です。契機となるのは、第7話。「君見て」がうららと市野井さんの心情を代弁するようになります。

 

 市野井さんはおすすめの漫画を持ってきたうららと、「君見て」の話になり、盛り上がります。そのやりとりに満足したようなうららの表情のあと、2Pのインサートが入ります。内容は「言わなくても分かる」ことについて。

 「君見て」では、それがトラブルの原因となっているらしいのですが、うららと市野井さんにおいてはその逆で、この対比がまた美しい。はじめて言わなくても分かる相手を見つけたうららの、ほっとした表情を見ていると、こちらも安心しますね。

 

 そして、それが本格化するのが、3巻になっています。冬コミのいざこざがあり、うららと市野井さんの二人のすれちがいが激しくなっている辺りです。

 えー、牽強付会ですが、この代弁の機能は、究極、気付きではないか、と思うのです。ただ代弁がこれまでと違うのは、今までの気付きは作中の登場人物、うららや市野井さんが主体であったのが、今度は読者主体であるという点。

 たとえば、うららからつむっちへの気持ちが、自分はどういう感情か分からなかったのですが、「君見て」の引用が代弁だと思って読み直してみると、しっかり引用の中で描かれていたりするのですよね(19話です、よかったら確かめてみてください)。こういう風に、読者にまで「気付」かせるという形で、気付きの力学は、作品と読者の関係にまで届いた。さらに言えば、引用がただの置き換えではない所にも、鶴谷さんのすごさを感じます。特に、5巻の引用の内容は、うらら・市野井、つむっち・英莉ちゃん、うらら・つむっち、など一つの引用のなかに、複数の代弁が隠されていて、実に多層になっています。すごい!

 

 

 して、このように、うららー市野井間の思いやり交通は、「君見て」を経由する形での三角関係へと発展しました。実際、冬コミのいざこざは、一対一の思いやりの行き違いが原因だった訳で、それをうまく回避した形です(本当に?)。

 とはいえ、多少のすれ違いもありつつ、うららと市野井さんはコミティア参加を決意し、うららは自分の漫画を描き始めます。4巻の大波乱は、そのうららが漫画を描けなくなってしまったこと。これは結局、舞い上がった市野井さんが、知り合いの印刷所を紹介することで、スランプを脱出しますが、ここで描かれていることは、親切というのは相手にしてあげたいと思って、することばかりではないのではないか、ということです。親切というと、ちょっと語弊がありますが、とにかく相手を勇気づけたいと思ってする行いの他にも、誰かをいつの間にか励ましているということは、往々にしてあるわけです。

 

 第33話。漫画を描く、とうららに告げられた市野井さんは、それまでご近所の息子さんがああでこうで、という話を聞いていただけに、うららの私生活に思いを馳せていたのだけれど、彼女の決心を聞いて、

何を心配 することが あろうか

 と桜を見上げます。冒頭の桜があるはずのカット(ご近所さんが桜の花びらを掃除しているシーン)では、桜の描写はなく、よって作品内の論理に従えば、うららの話を聞いたから、市野井さんは桜に気付いた、ということになるわけです。

 

 うららが漫画を描くと決めたことで元気づけられたのは、むしろ、市野井さんの方だったし、それは第35話冒頭の、コメダ先生と編集のそーまちんのやりとりと鏡写しのようです。

 だから、市野井さんがうららに印刷所を紹介するのは、受け取ったものに気付いて、それをお返ししたいという思いの表れなのだと思います。「メタモルフォーゼ」をあたたかく見守ってきた「親切の往復書簡」の原理は、してあげたいという気持ちよりかは、してもらったという思いから始まるものなのかもしれません。

 

 

 

 えー、話があっちゃこっちゃに飛びますが、次はうららとコメダ先生の対比の話です。2巻あたりから、その傾向があったことですが、第32話で、ついにコメダ先生とうららが、表裏の存在として描かれます。

 漫画キットを受け取り、わくわくした気持ちで漫画を描き始めたうららと、作品作りに懊悩するコメダ先生。これがやがて、おたがいの恩返し・親切へと繋がっていきます。

 

 

 そして、そこから始まったうらら漫画製作編(?)。ここでもまた、気付きの話をば。37話のあらすじは、

 ゴールデンウィークに突入したうららは、昼は予備校で勉強、夜は市野井宅で漫画製作に追われる毎日を送る。市野井さんに「漫画描くの 楽しい」と尋ねられたうららは、その場では気のない返事をするのだが、校了を終えた日、いつものバスには乗らず、眺めていただけの景色の方へ歩き出す。そこでようやく、うららは「うん… 楽しかった」と呟く。

 

 という感じ。好きなのは、ラストの1Pで、それまでバスから眺めていただけの景色をようやく見ることのできた、解放感のあるコマなのですが、あとのコマを見ると、そこはうららの身長より高い塀があって、見えるはずのないことが分かるのです。

 だけど、それは見えたのだ、とぼくは思います。

 

 個人的な感想で申し訳ないのですが、創作、特に物語というのは、やがて終わるもの、別離を宿命づけられているものです。全ての物語はライナスの毛布である、ついにその中へ浸り続けることはできない、というのは確か中島梓のことばだったと思います。

 行きて帰りし物語、その言葉が示すように、元の場所へといつかは帰らなければならない。けれど、戻ってきた場所は同じであっても、同じではない。自分自身が変わってしまったから。そこには新たなものがいやおうなしに見えてしまう。

 37話は、そのことの端的な表現だと思う訳です。

 高い塀に遮られ、見えるはずのない景色が見えてしまう。あるいは想像せざるを得ない。創作を経由して、戻ってきた場所でそれを自覚した時、やっぱり、楽しい、と思わずにはいられない。

 

 これすらも「気付き」と言ってしまうのは厚顔ですが、気付きと往復書簡、その両方ではないかな、と。この気付きは、自分のためにある。自分にしてあげられることを、振り返って、成長と呼ぶのかもしれないですね。

 

 

 

 そしてそして、やってきました最終巻。5巻は変化の予兆から始まります。

 第42話、うららの予備校の友人や、市野井さんの独白。さらに続く第43話の執着ということば。「ル・ネ」で書いたことですが、気付きは今立っている場所をより住みよく、豊かにするテクニックですが、変化していくことには無力です。

 

 けれど、うららも市野井さんも、そして恐らくは作者である鶴谷さんも、もうそれほど無力ではない。

 

 第48・49話で、うららは幼なじみのつむっちに、ある相談をされます。海外留学する彼女の英莉ちゃんの見送りに、ついてきてほしいと言われるのです。特に第49話は、「メタモルフォーゼの縁側」が出した、一つの答えだと思います。

 注目したいのは「君見て」の厚いかい。それまでは引用のたび、ページの地が黒くなっていたのが、この話では、他のコマと同じように白い地の上に載っている。例えば、47話では、ページの三分の二が引用になっていますが、最下段になると黒が抜け、引用と現在を黒字白地によって使い分けていることが分かります。つまり、49話で「君見て」が白地のうえにのっていることは意図的なことだというのが分かります。

 ひとまず、モノローグを引用します。

君といると 僕は嬉しい

君といると 僕には力がわいてくる

君といると 僕は僕の形がわかる

僕も君に それをあげたい

 この四行だけで、ぼくがこれまで長々と語ってきたことの全てがあります。

 初めに、この作品は「気付き」と「親切の往復書簡」だと書きました。作中で幾度も繰り返されてきた、思いやりあるやりとり。それはうららと市野井さんの間だけにあったわけではありません。つむっちも、その彼女の英莉ちゃんも、あるいは、コメダ先生にも。

 つまり、作中の引用で、黒地が必要なくなった理由はこうです。

 既にそれは、うららさんの一部になったから。

 「僕も君に それをあげたい」

 作中に無数に存在する「僕と君」の関係。その全てを包み込む、あたたかなことばが今作の目指した場所なのではないか、とぼくは思います。

 

 最後に、コメダ先生のサイン会にて、うららの描いた「遠くから来た人」が、ひそかにコメダ先生を勇気づけていたことが判明します。それを知らせるのが市野井さんであって、コメダ先生本人ではないのは、そこへ至るまでのきっかけが、市野井さんだったからでしょう。

 この必ずしも本人に返るとは限らない親切の往復書簡が、この世界を良くしている、と思うのは、ぼくだけでしょうか。

 

 とにかく、うららの物語は、コメダ先生に褒めてもらうことが目的ではなかった。1巻で、つむっちと英莉ちゃんが手をつないでいるのを眺めていたうららが、つむっちを引っ張って、駅まで送り届けることができた。

 そのことの方が(方と書いていますが、どちらがいいとかではなく)うららにとって、大きな出来事だったのではないかと。

 そして、市野井さんのことばもぐっとくる深みのあるもので、

この漫画のおかげで 私たち お友達に なったんです

描いてくださって ありがとうございました

 市野井さんはきっと古いタイプの人なので、旅立つ前にお世話になった人に挨拶に行くと思います。上の台詞は、そういう風に感じました。

 うららとつむっちのやりとりをライン越しに見守っていた市野井さんも、きっと、二人は離れても大丈夫なのだ、と感じたのではないでしょうか。

 そう感じたから、執着を振り払って、変化を選ぶことにした。

 「気付いたこと」はなくならない。

 「親切にしあったこと」は今も残っている。

 だから、うららはこう言うのです。

今日は 完ぺきな日 でした

 

 

 

 えーと、長くなりました。まあ、それだけこの作品が、鶴谷香央理さんの描くものが、魅力的だということで、ご理解いただければ、幸いです。

 今記事を書くにあたって、二日間、メモを取りながら、「メタモルフォーゼ」と「レミドラシソ」を読み返して、大変ではありましたが、幸せな二日間でした。そんな中で「船の舳先みたい」といううららさんの独白がずっと気になっていました。恐らく、うららさんが眺めているのは、3巻で手を入れた花壇なのでしょう。そして風は正面から吹いていて、草木がさっと二つに分かれた(野分とは台風のような風のことですが、野を分けるという字だけを見れば、風にはそういう性質がある)視界の開けたことを言っているのかな、と思っています。

 閑話休題

 記事を書こうと思ったのは、5巻を読んでしばらくしたあとでしたが、最後に書く言葉は読んだ瞬間に決まっていました。多分、「メタモルフォーゼの縁側」を読んだ人は、みんな、こう書くだろうと思います。

どうして こんなに 

どこまでも 優しいものを 作ったの 

  どうも、ありがとうございました。この記事を読んでくださった方も、この作品をぼくのもとに届けてくださった方も。

 

一月のあたたかくなると言われていた日