感想日記 夜明けの青

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「花ざかりの方程式」著 大滝瓶太 はかりがたい距離をはかる方法について

 

SFマガジン 2020年 08 月号

SFマガジン 2020年 08 月号

  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 雑誌
 

 

「なぞなぞを解かずに解く方法。必要なのはそれだ。」P,48

   「桜塚展開2次の項には花が咲く」これはメタファーではないと言明される。また「これは事実でなく現実である」という念押しは、方程式に寄生する植物あるいは花が物質的に存在していることを読者に了解させる。だが、その自明性とは裏腹に、方程式の花は誰にでも見えるわけではない。数学者とごく少数の見えてしまった人たちが、それを視認する限りで、話は自明性と一般性の議論へ移る。

「自明性と一般性はそもそもまったく異なる概念だ。皆が皆に「そうである」と無批判に受け入れられたところで、それは一般性を担保するものなんかじゃなく、単なる集合的主観に他ならない。」P,47

 存在の自明さが、その存在自体の一般性を担保しない。つまり、作品にあわせて言い換えるのなら、花を見ることのできた人間には花は確かに存在するものであるが、他の人間が花を見ることができるとは限らない。集合的主観ということばは、集団幻覚という語と近いかもしれない。花が確固たる存在を示しているのなら、花を見ることができない人間にも認知する方法があってしかるべきだ。それが、恐らくはここで書かれている一般性というものだと、ぼくは読んだ。

 そして、上述の引用部に至る。「なぞなぞを解かずに解く」とは、つまり「花を見ることなく認知する」ことの言い換えだ。事はここに至って、主観を相手にする。方程式に花を見ることは人間の認知機構の問題であるのか。主観によって観測したものを、別の主観に伝達する際の不手際が問題となっている。「桜塚八雲が残した方程式と植物に関する存在の自明性と一般性をめぐる問題は、現代を代表する難問のひとつ」となったのは、作中で後述されるウェイ・アイゲンベクターが提唱した完全演算定理と呼ばれる理論が前提にある。が、それはまた後述する。

 なぞなぞには解法がある。Q、パンはパンでも食べられないパンは? という質問の一般的に知られている答えはこうだ。A、フライパン。ここで問われているのは、小麦を原料とした膨化食品の提喩としてのパンではなく、「パン」という語のついた言葉の中で人に食すことのできないものである。だから、ピーター・パンという別の回答が想定されることもある。人肉食文化を有していないことを自明としている点で、この答えはいかにも弱いが……。

 閑話休題。なぞなぞの解法とは、いじわるな出題者への同化を意味している。出題者の質問の意図を正確に読み取り、その論理、文脈に沿った回答を用意しなければならない。これはあらゆる設問にも同様だが、なぞなぞと違うのは、なぞなぞはより一般性を欠いた形で質問がなされるという点だ。だから、なぞなぞを解かないという手法は自己を他人に預けることを否定する。他人の視点に立つ、あるいは他人の立場になって考える、という他者理解の形を拒む。そこで得られるのは自明性であり、一般性ではない。

 

 

 桜塚八雲が最後に残した論文『希薄気体におけるナビエ・ストークス方程式に寄生した植物の存在とその一般性』が書かれたのは、彼の友人、ウェイ・アイゲンベクターが提唱した完全演算定理の問題点への気付きによるものだった。

 完全演算定理は

 すべての問題が多項式時間内で解けることを示しただけにとどまらず、適切な初期条件と境界条件を入力すれば任意の問題を解く方法を有限値で出力できることまで示した。P,57

  「解けない問題はない」ことと「どうすれば答えが出るのか」をコンピュータが教えてくれる、というところまで人間の知性を追いつめた。だが、桜塚八雲はその定理に問題点を見出していた。

「この世界ならざる世界までも考慮することによりこの世界の唯一性を証明した定理は、世界の複数性と唯一性の境界近傍で極めて不安定な振る舞いをする」 P,60

  つまり世界を無限と仮定し、その矛盾を証拠に、世界は有限だという証明がなされた。また、世界が有限であるなら世界内の問題もまた有限であり、有限である以上、すべての問題には解がある、というのが完全演算定理の理屈だろう。客観上、世界は唯一のものだと証明された。しかし、そこには揺らぎがある。桜塚八雲は一般性を一つの物差しとして、完全演算定理への修正を試みる。

「桜塚展開とはそのような不安定領域における世界の表現である」 P,60

  完全演算定理によって、人間は知性を失った。従って、人間は客観ではなく、主観を問題にすることになる。方程式に咲く花についてだ。イデア論は主観の向こう側に、理想を置いた。それをさらにすすめた観念論では、理想というべき客観は存在せず、世界は人間の思考の中のみにうまれるものだとする。人間は己の歪んだ感覚器によって、世界を認識し、想像上の「世界」を作り上げる。これを完全演算定理あるいは桜塚展開に当てはめてみると、世界の唯一性と複数性の揺らぎの意味が、おのずと見えてくる。世界は、人間ひとりひとりの内に存在しているからだ。

完全演算定理は想像力のなかに散り散りに浮かぶすべての世界を重ね合わせることによって導かれる。P,59 

  秋津恒生が、記号に対する恋愛の所感を述べる意味は、ここから読み解ける。イデアあるいは観念への感情が完全なものであれば、世界は自分ひとりで間に合う。他人を必要とする理由はない。

 

 

 

 「桜塚展開」を主題に、アイゲンベクターの完全演算定理をきっかけとした桜塚八雲、ハルナ、秋津恒生の物語は、秋津恒生の「学問パノラマのモデリング」と呼ばれる理論によって、ひとまず完結する。同一空間上にすべての学問を配置する、あるいは、すべての学問が連続的に存在する空間を差して、

「学問はそもそも統一的な体系を成している」 

  という前提を秋津恒生は提示した。そこはすべてが物質的な世界と等価だ。桜塚八雲が墜落する飛行機の中で見た世界と、秋津恒生が描き出したパノラマとは近似を成している。それはある意味で理想の世界である。だが、バベルの塔以後の世界では異なる言語が飛び交い、異分野の学問が隣り合っている。必要とされるのは翻訳だ。コミュニケーションの本質のひとつである翻訳。言語間の翻訳も、文学を物理学へと展開する翻訳も、そして思考の言葉への翻訳も、すべてを十全に翻訳しきることはできない。そこには欠けや毀れが、あるいは余剰すら生じ、意味には揺らぎがうまれる。桜塚展開こそが不安定領域の揺らぎの表現であり、無数の学問の隣り合う場、つまり揺らぎが生成される場としての学問パノラマこそが世界のモデルである。林立する世界観の森は、世界という場に立つ個人の主観であり、それを媒介するコミュニケーションーー桜塚展開には花が咲いている。

 ここでは、あらゆる問題は距離として理解される。すべての学問あるいは個人が同一空間内に存在するためである。ミサとサクはその限りない遠さを乗り越えてやってくる。二人は秋津恒生の書きかけの論文の中にいる。二人は死圏に佇んでいる。二人は子ども部屋の二段ベッドに寝転んでいる。二人は、矛盾を内包した存在しない事象Aではない。

 

 

 

 ミサとサクは桜塚展開が内包している世界観を説明する。ミサが飛び降りるおじさんを見た屋上は「なくなったのではなく、行けなくなっただけだ」と言う。「ふたりはおたがいの世界を夜ごと子ども部屋で重ね合わせ」る。ふたりは「世界がひとつじゃないかもしれない可能性に」気付き始めている。

「みんなそれぞれじぶんの星を持っている。みんなそれぞれ同時に生まれて同時に生きている」P,54

  ミサとサクは二段ベッドの上と下で、桜塚八雲や彼らの両親が作り上げた構造の中身を埋めていく。二段ベッドは二段であるから、上と下しかない。年子の姉弟だから、双子のように突然通じ合ったりもしない。ふたりはもっとも身近な他人だ。

 ミサが飛び降りたおじさんをブログに書こうとする時、そこにあったのか定かではないものまで描写してしまう。「書けないはずのものが書けてしまう」という文は、どこかで秋津恒生の言葉に通じてしまう。

「 事象Aが存在してしまったと仮定し、この世界に起こる矛盾を示せばいいでしょう」P,64

   これは事象Aの不在の証明の仕方だ。ミサはまさしく事象Aの不在に書かされている。「事象Aを指し示す単語」がなくとも、事象Aの不在の証明にならない。それ自体が、ミサとサクの存在の仕方だ。

 秋津恒生は、ミサに左から手を握られる。サクに右から手を握られる。二段ベッドには上下しかなかったが、手は一般的に右と左にあり、真ん中には自分がいる。ミサとサクにとって、お母さんの不在がふたりをふたりにした。秋津恒生にとって、ハルナとの離婚が彼をひとりにした。ふたりとひとりは、さんにんになる。

 

 

 

学問境界近傍で言語の意味性は確率的に揺らぐ。P,66

 語り手の言葉が揺らぐ。発話者はだれだ?

「おもう」のと「考える」のは、「この世」と「あの世」くらい遠い。「そのメタファーで死圏はなに?」サクが下からきく。P,52

 語り手の地の文に、サクが質問する。

ここはあの世じゃない。わたしたちは死んでいない。ハルナは叫んだ。

ここにいないってことは死んでいるってことじゃない。

はじめからわたしたちはみんなここにいる。

ただ世界がちがうだけで、認識が食い違うだけで、ひとを勝手に殺さないで。

「出会わなかった偶然を悲観しないで」

 ハルナが確かに発話したのは「出会わなかった偶然を悲観しないで」だけなのか。そこへつながる文章は、いったい誰が?

「通常は具体的な観測点を規定し、そこから演繹的に示される結果に基づき差異を検討すべきことですが、今回の意味の式において、それはすでに抽象化された状態で組み込まれています。P,64

  語り手の存在自体が揺らぎ始める。物語とは、その始まりからして語り直されるものだからだ。既に起きたこととして語られる物語は、その時点で語り直されている。詩情はそこにある。