感想「源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり」山本淳子三部作(仮)から読み解く、時代の中心
上の三つを、勝手ながら山本淳子三部作、と呼ばせていただきたい。
テーマは一貫して、「源氏物語」「枕草子」の平安文学の傑作は、いかにして書かれたのか、という点。そこに、山本淳子さんは、一条天皇と中宮定子の悲劇があったと見る。
幼い一条天皇のもとへ入内した藤原定子は、時の権力者、中関白家と呼ばれる藤原道隆の娘であった。受領階級出身の高階貴子を母に持ち、女性ながらに漢文の教養に優れ、「枕草子」に記されるように、機知にとんだ斬新な文化の体現者であった。彼女は一条天皇の寵愛を一身に受けたが、父の死をきっかけに家は没落。悲劇の深さから出家にまで至るが、天皇のその愛の故に、後宮へ戻される(出家と還俗の当時的な意味は、各書に詳しい)。その後、権力が藤原道長に移り、娘彰子の入内を狙う道長の思惑や、貴族社会からの冷遇を受け、第三子の出産の折に、定子は身罷る。
短い人生の、けれど盛衰の激しい道ゆきは、紫式部に愛と政治の矛盾の物語を書かせ、清少納言に定子後宮サロンの文化を書き留めさせるに至った。また、定子の死は貴族社会にも波紋を広げることになる。
山本淳子さんが読むのは、そうした同時代に生きた人々が「源氏物語」「枕草子」をどう受け止めたのか、どう読み取ったのか、である。
「源氏物語」の冒頭
いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり
と書く桐壺巻。当時の読者は、後ろ盾のない身分の低い更衣が天皇の寵愛を受けた、という内容を見て、定子を連想せずにはいられなかっただろう、と山本淳子さんは指摘する。「源氏物語」が書き始められたのは、定子の死の数年後。桐壺帝-桐壺更衣と一条帝-定子の関係は酷似している。これを書いた時点では、紫式部はまだ彰子のもとへ出仕する前であるが、やがて一条天皇も「源氏物語」の愛読者となっていく。そこには一条帝の時代と切っても切り離せないものが確かにあった。「源氏物語」に描かれるあまたの恋路は、一条帝と定子の恋を変奏していくようでもある。
そこには、藤原道長を絶対的権力者として成立した一条天皇の時代、たとえ高貴な家柄の娘であっても、彼に請われれば、道長の娘のもとへ女房として出仕しなければならなかった、というような支配関係、政治的関係のしがらみの中、それに矛盾していく抑えがたい人間としての感情、愛によって引き裂かれる人間の姿が描かれている。
「源氏物語」はフィクションとはいえ、一条天皇と定子の関係を直視し、描かれた。紫式部自身が、人生で経験した別離や諦念が、天皇と中宮の悲劇というモチーフを得て、大きく羽ばたく。そして、そこにこそ紫式部は救いを見る。
いづくとも身をやる方の知られねば 憂しと見つつも永らふるかな
一方で、あえて悲劇に目を背け、華やかなりし文化の咲き誇る春を描き出したのが、清少納言の「枕草子」だ。「枕草子」において、定子の被った悲劇はまったくといっていいほど記されない。そこに描かれているのは、理想としての皇后定子。教養をもて、知的遊戯をたしなみ、機知によって、ささやかな日常を華やかな舞台へと変貌させる。また、それを目指す定子は、清少納言をはじめとした女房たちに、時折、課題を示す。「香炉峰の雪」がそうであるように、定子は突然に、女房たちに質問を投げかける。それは女房を試すしぐさでもあり、同時に、彼女たちを自らが理想とする後宮サロンへと導くリーダーとしての姿でもある。
だが、それを読む当時の読者たちに、定子の悲劇が忘れられていたわけではない。むしろ、その悲劇が色濃く残っていたからこそ、「枕草子」は求められた、と『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』は記す。
定子の死に貴族社会は動揺し、若い貴族の中からはついに出家するものまで出る。定子の死は無常と受け止められた。また、公卿の間では、生前の定子への行いから、罪悪感が同情心へと変わり、出家した若者への共感までが示される。
そんな中、清少納言の書き記す、明るく機知にとんだ定子の姿が、どれほど慰めになっただろうか。そこに在りし日の定子の、そして、そこに仕える女房と貴族たちとの当意即妙を是とする、軽やかな教養のやり取り。
生前、定子への白眼視を続けた貴族社会は、そのような輝かしい生活を描く「枕草子」をなぜ、握りつぶそうとしなかったのか。藤原道長こそ、我が道を邪魔するそれらをはねのけてしまわなかったのか。
ここに「枕草子」のたくらみがある。貴族社会には「枕草子」を受け入れる素地があった。清少納言はその隙を狙いすまし、理想の皇后定子を永遠に書き留めることに成功した。それを批判するのは、紫式部のみである。
『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』のP82に、「枕草子」と「源氏物語」は並んで書かれた時代があるのではないか、という内容が書かれている。冬と雪を題材に、彼女たちが作品内でやり取りを交わしている姿が垣間見える。
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人
という書き出しで有名で、知っている人も多いだろう。これを、山本潤子さんは女房、紫式部の立場から、後宮を担う女房の対抗心から来るものだと読む。
定子の後宮は、まさに文化サロンであり、目まぐるしい政治の世界に疲れた貴族にとって、軽妙なやり取りを交わす、心安らぐ場所であった。だが、紫式部が仕えた彰子の後宮は、先に紹介したように、高貴な家の姫君を女房として雇っていたために、共用に疎く、また当時男性陣に中心的だった漢文の素養などは期待するべくもなかった。
つまり、彰子の後宮は、定子のそれと比較され、時には定子の後宮を懐かしむ声され聞こえるほどだった。上の、清少納言批判は、そういった文脈で書かれたものではないか、と山本淳子さんは言う。
では、私人紫式部としては、どうだろうかという点が私は気になる。
『平安人の心で「源氏物語」を読む』の最後に、定子の零落によって、世間は「漢才は女に不運をもたらす」と言われるようになったことが書かれている。漢文の才を父に嘆かれた紫式部は、定子の死によって、一つの道が途絶えるのを見た。「源氏物語」はそのことへの反抗ではないだろうか。愛読者の一人である一条天皇に、「源氏物語」の作者は日本書紀の講義をするべきだ、とまで言われ、その漢才をいかんなく発揮した紫式部にとって、「源氏物語」は反抗の書であったように思える。そして、それは定子の鎮魂の書として迎えられた。
では、明確に鎮魂の意思を持ち書かれた「枕草子」清少納言は、ある意味で、紫式部と志を同じくしていたのではないか。
山本淳子さんは、その答えを「枕草子のたくらみ」の最後で記している。ぜひ、各書を読んでもらいたい。
そして、何の根拠もなく、私が書くのは、紫式部と清少納言は研鑽と闘争と共にする同志であったのではないか、ということ。また、それ故に、紫式部は清少納言を批判せずにはいられなかったのではないか。足手まといはごめんだとばかりに。
以上、内容は冒頭に挙げた三冊によっていますが、内容の不備等の責任は筆者にあります。興味を持たれた方は、ぜひ、各書を手に取っていただければ、と思います(正直なことを言えば、山本淳子さんの主張と、筆者の主張の峻別が困難な点は、すべて筆者の力量不足によるものです)。