感想日記 夜明けの青

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感想「マイシスター、シリアルキラー」 無垢と罰の葛藤の場としてのセカイ系

 

 

妹が、また殺してしまった。

 コレデとアヨオラの姉妹は、ある秘密を抱えている。
 アヨオラが殺した三人目の彼氏フェミの遺体をコレデが片付けるところから小説は始まる。アヨオラの殺人衝動の端緒は、父親から受けた虐待にあるようで、それを知っている姉のコレデは、アヨオラを止めきれずにいる。

 繰り返される殺人に、コレデは苛立ち、悩み、葛藤する。やがてコレデは恋い慕うタデと、妹のアヨオラのどちらを選ぶのか迫られるのだが……。

 

 無力な語り手が、大切な人の選択を前に、なすすべもなく立ち竦み、葛藤するほかないという物語構造がかつて、あった。ゼロ年代セカイ系と呼ばれる物語群はおおまかに、そのような物語であったと思う。その中でも、今作「マイシスターシリアルキラー」と似通うモチーフを扱っている物語に「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」がある。

 

 いずれの作品も、語り手である主人公と、殺人を犯すヒロインが配されており(「みーまー」「チェーンソーエッヂ」ともに明確に殺人を犯すと言い切れるわけではないが、そのあたりは後述する)いずれも、語り手である主人公はヒロインの選択に関与する余地は少なく、作品内において殺人に対する葛藤を担っており、つまりヒロインたちが神話的(物語的)人物であるとするなら、小説的人物として位置している。

 

 ゼロ年代には、この葛藤にこそ重きが置かれ、論じられたのだが、ここでは深入りしない。確認したいのは、葛藤する語り手と行動するヒロインの構造である。「マイシスターシリアルキラー」において、葛藤する語り手のコレデは自らの行動で、妹のアヨオラを危機へ招き入れる。そこには、ある一つの力が働いているのではないか、と私は思う。

 

 小説ないし物語内で殺人を扱うにあたって、避けては通れないのが、倫理的問題である。相互確証としての社会契約を結ぶ近代社会以降の個人という存在は、社会の一員であることを示すため、内部規範である倫理に従う必要がある。倫理に従わない者は、相互確証を得られないために、社会に遇することを許されない、あるいは許されづらい。

 

 倫理に従うかどうか。この問いは、物語内においても強く作用する。そこでは、作者は、また語り手は、殺人についてどう思っているのか、という視線が強く作品内を貫くことになる。そして、その視線は別の形で、物語に作用する。

 殺人者は罰せられるのかどうか、という問い。

 コレデが陥ったのは、この陥穽ではなかったか。彼女が恋い慕う相手であるタデを救うため、妹のアヨオラを犠牲にする。コレデもまたアヨオラの殺人を手伝ったという点で無垢ではないはずだが、新たな犠牲者を救済するというたった一つの善行で、あるいはアヨオラを告発するという報いを得ることで、コレデは倫理的視線から逃れうる。

 

 また一方、上にあげた二作を見ると、殺人者は罰せられるのかどうか、という問いへの葛藤が物語を生むようにも思える。

「みーまー」では、まーちゃんの殺人行為は自己防衛というエクスキューズが与えられ、彼女が明確に意思を示し、行う殺人は、10巻のラストにおいてである。いずれのときも、まーちゃんは攻撃に対する反応として殺害という選択肢を浮上させる。だが、語り手であるみーくんが、それを回避させるところに、この小説のサスペンスは宿っている。

 

「チェーンソーエッヂ」でも同様だ。彼女たちが相対するのは不死身のチェーンソー男であり、その存在はどこか超常的で、彼女たちの戦う理由は世界の均衡のため、という抽象的なものになっている。人体の破損を思わせる描写はあるものの、生命の欠損には至らず、またチェーンソー男は概念的な悪の象徴のようでもある。

 

 ここでは、行動するヒロインが殺人者であるという事実は遅延され続ける。同時に、上記の殺人者は罰せられるのかどうか、という問いも遅延する。二作がその地点を巧妙に避け続けたのは興味深いことだと思う。

 

 翻って、「マイシスターシリアルキラー」では、アヨオラは殺人を確固として果たしている。しかも、フェミの時点で既に三人目であることが明かされる。さらには、食中毒で亡くなったとされるボイェガも、アヨオラの仕業ではないか、という疑念を否定しきることはできない。また、タデとの一悶着も、アヨオラから仕掛けたものではないか。状況証拠は充分すぎるほど、集まっている。

 だが、ここでも問いは遅延される。語り手であるコレデは、アヨオラの殺人の決定的瞬間を目撃することはない。アヨオラがはじめに殺害した彼氏は、そうされてもおかしくなかった相手だ、とコレデに思われている。アヨオラが各殺人の折に言うように、襲われたからナイフを使って身を守ったのだ、という言葉をそのまま受け取っても仕方ない、とコレデは思っている。ボイェガも慣れないドバイの地で食中毒になったとしても不思議ではない。三人を殺した殺人者との旅行でなければ。

 

 この遅延は、物語のクライマックス、タデとの一件の事情聴取で決定的なものになる。語り手のコレデが判断するのは、結局、タデとアヨオラの証言のどちらを信じるのか、という問題でしかない。その直前、コレデから全てを聞かされていたムフタールは、コレデにこう言う。

「きっとできますよ」

「自由になること。真実を語ることですよ」 

  ムフタールはアヨオラが殺人を犯したと確信している。だが、彼の語る「自由」や「真実」は文字通り、括弧つきのものである。というのも、彼が知る「真実」とは、コレデが語ったものでしかないからだ。

 

 問いは遅延された挙句に忘却される。コレデは、アヨオラの罪を、あるいは自らの罪を、妹が自分を必要としてるから、というごく個人的感情で不問にする。ある種、社会的要請である、殺人者に罰を、という脅迫観念――倫理は、よりミクロの状況へ後退を余儀なくされ、ついには無効化される。社会は姉妹によってハックされる。

 

 決して顔を合わせてはならない。問いの視線をかいくぐるには、素知らぬ顔でその前を通り過ぎ、社会をやり過ごさなければならない。ただただやり過ごすこと。倫理に駆られた社会、または社会構成員の視線をあえて受け止めないこと。次第に、視線は逸れ、注目は和らぐ。問いは無効化され、社会の中にいて、倫理を不問にする部外者が、そこに現れる。