感想日記 夜明けの青

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感想「万事快調 オール・グリーンズ」著波木銅 

 

 偶然手に入れた大麻の種、何もない田舎から脱出するために工業高校の女子三人組は「葉っぱ」を育てて売る計画を立てる。いろいろな問題もあるけど、”万事快調”

 

 だいたい二部構成(作中でも言及されるけど)。

 第一部が、大麻の種を手に入れるまで。

 第二部で、大麻を売りさばき、それが立ち行かなくなるまで。

 といった感じ。(+マークまであらすじ)

 

 朴秀美は工業高校のクラスに三人しかいない女子のひとり、なんとなくクラスからはぶられ気味な仲間の岩隈と特段仲がいいわけではないけど、つるむ相手もいないからつるんでいる。放課後には駅前に繰り出して、フリースタイルの集まりに参加している。ある日、才能を見込まれた朴は曲を作ってみないかと誘われる。著名なラッパーの家に招かれた朴は、そこで大麻を盗む。

 一方で、クラスに三人しかいない女子の最後の一人である矢口は家を出て、映画監督になるという野望を持っていた。日常に不満を持ちつつも、人間関係をそつなくこなす矢口は数少ない女子ということもあり、クラスの中心におり、朴たちとは疎遠な関係だった。

 偶然、駅前でフリースタイルを披露していた朴を見かけたことをきっかけに、矢口と朴は意気投合する。家を出るために金が必要だという矢口に、朴は大麻を育てて売ることを提案し……。

 

 というのが第一部。チェーホフの銃よろしく登場するマチェーテや、曲を作りに行ったラッパーの家での惨劇などもあり、第二部でもそうだけれど、細かいところの伏線が多い。丁寧に作られてるなあ、と思う。

 

 大麻を育てることになった朴たち三人は、活動停止中の園芸部のハウスを借りることに。屋上に入り込んだ三年男子コンビや、岩隈の後輩の化学部員を巻きこんだりと、多少のごたごたはありつつ、どうにか大麻の販売にこぎつけた朴たちだったが、朴の家には大麻を盗んだラッパー、佐藤がもぐりこみ、復讐の機会を狙っていた。

 卒業式の日、朴は屋上のハウスに忍び込んだ佐藤と対峙する。乱闘の末に、ハウスは炎上し、煙の入り込んだ体育館では卒業生たちがハイになる。何もかもがおしゃかになりつつも、どうにかその場から逃げ去る朴。駆け付けた岩隈と矢口と、まぁ、いいかという淡い希望を分かち合う。

 

+++

 

 多分、作者が書きたかったのは第一部なんだろうな、と思った。後半になるにつれて、「お話」を進ませるための記号的なキャラが増えていく。それでも一部の感想で書いたように伏線がしっかりしているので、それはそういうものとしてちゃんと読める。実際面白いから、読み終えられたわけだし。

 この「それはそういうもの」感って軽視してしまうけど、実はこれこそが創作物の面白さの最大の要因じゃないかと最近は思う(おもしろくするのも、つまらなくするのも)。フィクションって所詮フィクションなんだけど、これはどこかで本当の話じゃないかって思ってないと、百パーセント楽しめない。ハリウッド映画を抵抗なく楽しめてしまうのって、実際のアメリカの生活を知らないから、キャラクターの感情に集中して鑑賞できるのが大きいんじゃないかと思う。「それはそういうもの」って思って観てるわけで、むしろ実際の生活とハリウッド映画の中の世界が入れ替わってしまってる。一般的な日本人がリアリティを感じるのって、「アメリカ人の生活」じゃなくて「ハリウッド映画の中のアメリカ人の生活」じゃない?

 これは作者の世界観(世界をどう見ているか)に迎合できるか、という話でもあると思っていて、例えば、今作だと工業高校での生活についてはあまりリアリティを感じなかった。名前を書けば入れる高校の実情は知らないけど、SFやジャンリュックゴダールの引用する工業高校生が主な登場人物なわけで、そういう点では工業高校という設定は、舞台装置でしかなかった。

 でも逆に、駅前で輪(サイファー)組んで、ライム(?)を交わす場面なんかは、読者である自分が知らない世界だから「それはそういうもの」と思って、楽しく読めた。この部分だけはまだ誰にも書かれてなくて、この作者にしか書けない場面だった。「それはそういうもの」っていうフィクションのかたちを新しく作り上げてる。だから、面白い。ラッパーの生活ってこんな感じというイメージが、作者の書いたフィクションで上書きされてる。もっと詳しい人が読んだらまた違うのかもしれないけど、自分はそう読んだ。田舎の糞さは全然書けてなくて、だけど、田舎の狭いコミュニティの居心地の良さは感じられた。自分が意図的にそう読んでいるだけかもしれないけどね。

 

 あと朴という字、ついパクと読んでしまうので気付かなかったけど、文章にしてみて、一人称のぼくの代名詞として使ってるの、ちょっとダサいなと思った。それは作者も感じたのか、作中で言い訳してあるけど、その洒落っ気はべつに面白くない。

 

春を先取りしたあたたかさの夜