感想日記 夜明けの青

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感想「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版 幸せの背景は不幸」著入間人間 どうして大切なのか分からないし、分かりたくないけれど大切だと思ってしまうもの、つまりは愛について

 

 internet explorerを立ち上げるだけでファンが唸りだすデスクトップパソコンの画面には、googleのトップページ(yahoo! japonからわざわざ検索して開いている)が開かれていて、検索窓に s の文字を入力すると、予測変換でシリアルキラーと出てくる。その下にはサイコパスサイコパス診断と続き、ぼくがこれから見ようとしているのはwikipedia北九州監禁殺人事件の記事で、それがぼくの罹患した中二病という病気の症状だった。

 

 嘘だけど。

 

 そう、これから語ろうとしているのは昔話じゃない。今の話をしようとしている。つい数日前に発売された、みーまー完全版の話だ。加筆修正を加えられ、書下ろし掌編もついた、嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんの完全版の話。それを語るということは必然的に愛についても騙るということで、つまりぼくは、みーまーに書かれていた話が、愛について語っていたのだとようやく気付いたわけだ。それはずっとずっとそうだったのかもしれないけれど、ぼくはいつでも遅すぎる。この記事だって、本当は先週の内に出しておかなきゃいけなかったはずなんだ。だけど、そんなことはどうでもよくって、きっと誰にも語られてないこの話をぼくが語るということだけが重要で、他は些末事。

 これからの話は、もちろんネタバレありだから、そこんとこ、よろしく。

 

 

 

 

 あらすじ(結末部分まで)

 八年前、平和な田舎町で起こった誘拐事件の被害者である僕と、まーちゃん。事件の解決とともに疎遠になった二人だったけれど、ある日、街にふたたび事件が起こる。通り魔連続殺人事件と誘拐事件。八年前を思い出させる事件に街は騒然。僕はまーちゃんのもとへ姿を現し、正体を明かす。みーくん、それが僕の名前だった。みーくんはまーちゃんの絶対の味方で、いつでも助けてくれるし、嘘はつかない。まーちゃんの家には、誘拐された幼い兄妹がいて、僕はまーちゃんを助けるために、奔走することになる。

 まーちゃんを助けるため(嘘だけど)に始めた同棲生活は順風満帆、まーちゃんとのらぶらぶ生活もABCのいいところまで進んで、誘拐事件の被害者、池田兄妹との溝も埋まって、上手くやっていけそうと思った矢先、まーちゃんは夜中に暴れ出す。過去に受けた傷が癒えるはずもなく、まーちゃんを苛む。僕はそんなまーちゃんを病院へ連れていくけれど、自分を守るために視野を閉ざしたまーちゃんにとって、治療とは何か、幸せとは何か分からないままで、だけど、僕とまーちゃんの間はらぶで満たされているから大丈夫(嘘だけど)。そんなこんなの間にも通り魔殺人の被害者は増え、僕とまーちゃんは殺人事件の容疑者になっているのだった。

 上社奈月さんは、凄腕の女刑事だ。僕と奈月さんはまーちゃんに隠れて、地元のデパートでこっそりデートを企んだのだけれど、それがまーちゃんにばれて、僕はデパートの屋上から飛び降りる。「死んじゃえ」そう、まーちゃんが言ったから。けど、僕は生きていた。まーちゃんはそんなことがあったあとでも変わらないし、家に帰ると池田兄妹がすり寄ってきて、いくら感情に疎い僕でも少しほだされてしまう。僕は計画の最終段階を進めることを決める。こんなことがあっても、僕はまーちゃんのことが好きなんだってさ。

 僕はこの誘拐事件を終わらせることにした。今回の誘拐事件は、もともと家出癖のあった池田兄妹を、どういう経緯からか、まーちゃんが保護したことから始まったものだった。だから、僕は池田兄妹を家に帰すことに決めた。大事なのは、まーちゃんが罪に問われないこと。僕はそのための策もうっていた。街では、まだ通り魔殺人が続いている。

 八年前に起きた誘拐事件、攫われたのはみーくんと呼ばれる男の子と、まーちゃんと呼ばれる女の子だった。彼らを監禁していた地下室には、誘拐犯のこどもの男の子もいて、だから地下室にいるこどもは全部で三人だった。そこで行われた残虐な行為のせいで、みーくんもまーちゃんも少しずつ壊れていって、誘拐犯のこどもはそれを全部みていて、全部覚えていた。みーくんとまーちゃんは都合のいいところだけ覚えていて、あとは忘れてしまったみたいだった。あれだけ大切にしていたお互いのことさえ。

 帰路につこうとしていた池田兄妹をみーくんが襲う。追いかけて、追い詰めて、殺そうとしたとき、みーくんの脳裏に懐かしいものが浮かんで、一瞬、躊躇する。何かを思い出せそうな感覚。だけど、そこに邪魔が入る。青年が割り込んできて、みーくんの邪魔をする。彼もまたみーくんのことを知っているみたいだった。何かを追いかけ続けてきたみーくんは、彼が自分の何を知っているのか聞き出そうとして、失敗する。みーくんは殺そうとした彼に返り討ちにあってしまう。

 僕は倒れたみーくんに言い訳をする。「何で文系の僕が殺人鬼と戦闘なんかしなくちゃいけないんだ」満身創痍の二人は、神社の境内に倒れ伏す。

 死にきれず、病院に運ばれた僕はまーちゃん、御園マユと出会ったときのことを夢に見ていた。その時初めて、誰かに求められたこととか。どうして彼女を好きになったのか、とか。

 まだ死ねない理由、とか。

 

 

 

 「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版」に登場する主要人物は三人、みーくん、まーちゃん、そして、ぼく。彼らには幼い頃誘拐事件にかかわってしまった過去があり、それぞれの歪みや暗い影となって、現在の人格などに作用している。特に、その異常さが分かりやすいのがまーちゃんこと御園マユであり、彼女は事件当時から精神的に成長することがなく、また、自らをまーちゃんと呼んだ人物を、みーくんと認識する癖がある。彼女にとって重要なことは、みーくんが自分の側にいるかどうかであり、たとえそれが周囲から見て、どれほど不幸せなものに見えたとしても、マユ本人にとっては幸せに他ならない。彼女にとっては、みーくんか、みーくんでないかだけが重要であとは些事である。後述するが、その状況そのものを不幸せとみることもできるが、マユのそういった異常な認識を正すことが、彼女を幸せに導くかというと、それは疑問である。

 

 一方で、みーくんの場合、地下室の記憶を忘れた彼は、その名残を追いかけ、連続殺人に手を染める。地下室で起こった凄惨な出来事、血と暗闇と暴力、それらの瞬間に垣間見えるものが自分にとってどれほど大事なものなのか、計りかねるがゆえに、彼はそれを追い求めることをやめられない。

 

 そして、語り手である僕は一見して、異常性を持ち合わせていないようにも見える。虚言癖の気があるけれど、軽口やジョークの類ともとれるし、人並みの感情を持ち合わせていないなどと嘯くけれど、言動からは人間味を感じるし、少なくとも、そう見えるように取り繕うことができるという点で、まーちゃんの異常性とは一線を画している。そんな彼の歪みは、優先順位のつけ方にある。地下室での経験から、死や血、暴力などの一般的に忌避されるものへの抵抗感が薄く、また、まーちゃんを最優先にするという行動理念に基づいて行動している(ように振る舞う)。

 

 この三人に共通しているのは、彼ら自身が各々、大切だと思っているものに対して、それがどうして大切なのか、自覚できないというところだ。そして、その大切に思っているものが、大切にするに値しないもの――むしろ、積極的に自分から切り離した方がよいもの――として位置づけられている。

 まーちゃんにとってのみーくんとは仲良しの男の子の名前であったけれど、誘拐事件を通して、みーくんは自分を守る殻となった。耐えがたい現実から逃れるための逃避先であり、自分を助けてくれるかけがえのないもの。だが、それがなぜ大切なのか、というと、誘拐犯に地下室に監禁され、耐えがたい苦痛を与えられたから。苦痛から逃れるために必要だったから、まーちゃんにとってみーくんは大切なものとなった。

 

 繰り返しになるがここに、大切なものが、大切にするに値しないものであるという二律背反が成り立つ。そして、それこそが、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版」が描きだした新しいみーまー像ではないか、とぼくは考える。

 もう少し詳細に見ていこう。まーちゃんの幸福は確固としたものとして存在しているわけではなく、あらすじで述べたように過去のフラッシュバックに苛まれるなど、みーくんという幻想を突き破って、幸福にだけフォーカスしたまーちゃんの視点にも現実が垣間見える。あくまでみーくんに焦点を合わせることで保っていたまーちゃんの幸福も、完璧ではない。だからといって、フラッシュバックの原因である過去のトラウマを取り除こうとすると、まーちゃんはより大きな不幸を直視せざるを得なくなる。「治療」するために、みーくんという色眼鏡を外し、みーくんという幸福から視野を広げれば、その背景となっている不幸が否応なしに視界に入り込んでくる。この場合のまーちゃんの不幸とは、自分の両親を自らの手で殺したことだ。結果として、過去のトラウマと向き合うために、さらなるトラウマを生み出すことになる。それは上述した二律背反と比喩の関係にあり、両親を殺した記憶は「治療」することの第一歩でありながら、思い出さずに済むのならそのままにしておきたい過去でもある。

 

 同じことはみーくんにも言える。夜な夜な徘徊し、殺人を繰り返すみーくんは視界をよぎる記憶の残滓のようなものを探している。あるいは、記憶の残滓に突き動かされ、殺人を繰り返している。ここでも、大切に思っているものが、大切にするに値しないものであるという二律背反が成り立つ。殺人をしてまで手に入れたいものであるのか、という問いは本文にも書きこまれている。それでも、みーくんは求めることを選び、人を殺す。

 

 そして、僕。語り手である彼の顛末は本文に書かれている。彼の行動理念を作り上げたのは、前述の二人と同様に、八年前の誘拐事件である。ただ、二人と異なるのは、彼が誘拐事件の被害者ではなく、誘拐事件の犯人の息子であるという当事者性にある。ここでいう当事者性とは、四章の冒頭にあるように彼の行動次第で誘拐事件の動向が左右される状況にあったということ。彼が事件の顛末に責任を感じていることは、嘘をつくという行為への彼の認識を語る場面でも表れている。

嘘をつく、ということを自覚的に行うためには正常な思考が必要だ。

(中略)

僕だけが正気を保ちながら、この地下室の始まりと終わりを、見届け続けた。
一秒ずつ、ゆっくり、決して時間が飛ぶことなく。
あますことない、すべてを。

P270

 しかし、彼のこの責任感は事件を通報し、未然に防げなかったことにではなく、事件を通して、かけがえのないものを手に入れてしまった点にある。引用部の前後は、まさにそのことについて書かれており、僕はまーちゃんとの嘘の触れ合いを通じて、これまでの人生で得られなかったものを手に入れる。彼にとってもまた、大切なものが大切にする価値のないもの、となっている。間違った過程で手に入れた結果。これは池田兄妹の顛末とも響き合ってくる。どうあっても正しくはなかった解決方法とそれを遂行しきれなかった僕の甘さという間違いだらけの道程を経て、本書の結論部は導き出されるわけだが。

 

 閑話休題

 ここまで見てきたように、彼ら三人の求めるものは、他人に認められるようなものでは決してない。手に入れることで不幸になるもの、手を伸ばすことで他人を損なうもの、他人を損なって手に入れたもの。彼ら自身が大切に思うものは、すでに価値が失われているものである。それは世間一般から見てという以上に、彼らの内面から自壊は始まっている。価値あるものだと自分自身が認められないはずなのに、それを大切に思ってしまう。そういった自己矛盾の中に、彼らはいる。だが、その矛盾に気付くことも彼らには不可能だ。

 タイトルの副題になっている「幸せの背景は不幸」は、そのように解釈することが可能だと思う。そして、それが本書が全編を通して、描こうとしているものではないか、とも。

 

 これを前提として、もう一度、本書を旧作と比較しながら見ていこうと思う。

 語り手の僕はみーくんという名前を利用して、御園マユに近付き、彼女が引き起こしてしまった誘拐事件の解決を試みる。同棲生活を続けていくうちに、マユが過去のトラウマにいまだ囚われていることが明らかになっていき、その鏡写しのように、僕の過去も明らかになっていく。巷間では通り魔殺人事件が街を賑わせており、その真犯人は、マユや僕と同じ誘拐事件の被害者、菅原道真である。

 

 このメインプロットで旧作から大きく変更が加えられているのが、みーくんこと菅原道真の殺人衝動まわりの設定である。それに付随して、マユが池田兄妹を誘拐した理由についても想像の余地が生まれている。

 旧作において、みーくんの殺人は無意識で行われており、また殺人を行う動機は、同じような衝動を持つ人間を探すというものだった。完全版では、記憶の名残を探し求めて殺人を繰り返すという設定に変更されており、みーくんの動機が過去の事件との関連を深めることで、人物像がくっきりとした形で押し出されているように思われる。そして『八人目』での記述のとおり、僕との対比が意識されているのが分かる。人間を怖いと思うからこそすごいと思うみーくんと、人間が怖いけれど好きになりたい僕。八年前の事件によりフォーカスを当てる形で、完全版は書かれている。

 また、池田兄妹を追い詰めた場面で、幼い男女の組み合わせに何か感じ入るものがように書かれている点は、まーちゃんが池田兄妹を誘拐した動機に繋がっているのではないか、と想像させるものになっている(逆に、旧作にあった池田兄妹へのマユの言及が、完全版ではなくなっている)。

 

 もう一つ重要な変更点は、みーくんとまーちゃんが壊れてしまった経緯だ。旧作では、「芸」を覚えさせられたみーくんがまーちゃんを標的にしたため、まーちゃんは目の前の人物をみーくんと認めることをやめてしまった、と説明される。一方で、完全版では、地下室での生活の中で徐々にまーちゃんが平衡感覚を失っていき、それに伴う形でみーくんもまた壊れていく。みーくんが加害者であるという設定がオミットされた影響で、語り手の僕が二人の関係に入り込んでいく異質感が増している。そしてそれが僕の意思であったと書き加えられたことで、なぜ誘拐事件に介入しようとしたのか、の動機が補強されている。

 

 個人的にこの二点の変更が、作品の雰囲気をがらりと変えるものになっていると感じる。完全版のまーちゃんを取り巻く環境であるところの僕・みーくんが、強い自分の意思を持って行動しており、旧作の「壊されてしまった」という諦念は薄まり、「壊されてしまったあと」の物語へ推移しているように感じられる。つまり、言い換えると、絶望が薄まっているとぼくには感じられた。これは一般論だけれど、希望を描く物語がよい物語とは限らない。絶望の中に沈んで、そのどうしようもなさに浸ることでしか得られない希望というのはある。絶望が希望に転化する瞬間は、ある。

 

 

 

 ――ずいぶん長い言い訳でしたね。それで、どう思っているんですか?

 

 長い夢でも見ているようでしたよ、ええ、覚めなきゃいいなと思っているうちは、それが夢だと自分でも気付いているわけで。夢を夢で終わらせない、なんて、ぼくの垂れ流しても大丈夫な願望なんて、ワイフが許してくれるはずもありませんから。(嘘だけど)

 

 ――つまり、××さんにはハーレム願望がある、と。

 

 いえいえ、全人類に、ですよ。

 

 ――だうと、私にはありませんので。

 

 Gさん、嘘はいけません、嘘だけは。

 

 ――やはり聡明な××さんには隠しておけませんか。そうです、私は常々みーさんとマユちゃんをはべらせて、病院のベッドですやすやと眠りたいと思っていました。

 

 なんだか、聞いたことのあるシチュエーションですね。

 

 ――おお、完璧な発音。私の上司は、すちゅえーちょんと彼のことを読んでいます。

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 こんな駄弁りがみーまーの本質だと思っていた時期が自分にもありました。自分で書いてるからこれが上手いのか下手なのか分からないけれど、それでも、ぱぱぱっとキーボードを叩いて出力できるくらいには、自分に根差しているものなわけで、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」は確実にぼくを形作ったものの一つということです。

 完全版を読み終わっての第一印象は、加筆修正ではなくて、完全リライトの方を出してくれればよかったのに、と思いました。常々、入間人間氏が述べていたように、みーまーが読みたいのならみーまーを読めばいい。電波女と青春男でSF版を出したように、みーまー嘘だけど版とでも題打って、今の入間人間氏が書く、全編書下ろしの新しいみーまーでも書いてくれたらよかったのに。

 ひどくつまらないことを言えば、時代背景も含めての作品だし作品受容でもあるので、あの時代を離れたみーまーがこれじゃないとなるのは分かりきったことだった。ゼロ年代後半の絶望とももどかしさともいえない空気感が、作品にも作品を読むぼくらにもまとわりついていて、それが作品の評価を決めていたところもある。不謹慎なことを言うようだけど、猫の惨死体が発見されたニュース(それに関連して、学校を襲った高校生)を見て、生まれてくるのが十年(十五年?)遅かったね、と思った。十年前ならば、彼が抱えていたほの暗さを共有できる場はあったはずで、結果、彼の行動が変わらなかったとしても、彼に共感する人たちはいたはずで。なんて益体のないことを考えていた。許されるはずのないことをしてみたい。他人に迷惑をかけず、それが可能なのはフィクションの中だけだ。嘘だけど。

 まーちゃんになら殺されてもいいかなという僕の自殺願望は、当時みーまーを読んでいたぼくも感じていたものだったし、あるいは、生き物の命を奪ってみたい(野良猫をつかまえて、やわらかいおなかに刃物を突き立てる感覚は、きっと恐らくは不愉快で楽しくもなければ、心地よくもないはずだけれど、それでも「経験」してみたい)という願望を、みーまーを読みながら恋に恋する乙女のように夢想したのも、まぎれもない事実だということをここに書いておく。

 

 この記事の前半部、テーマに沿った読み方のようなものをしたけれど、そんなことは作品読解でもなんでもなく、むしろ言ってしまえば、テーマなどというものは作品に対して邪魔以外の何物でもなく、本当に大事なのは、ぼくが先にあげたような人間の持つ願望のかたちを、作品を通して実現させたり、夢見させたりすることだったりする。この記事を書くのに忙しくて、まだ旧作を読み返せていないけれど、記事を書くにあたって文章を探していると、かなり「無駄」がそぎ落とされているのだな、と改めて思う。その「無駄」にこそ、みーまーらしさが詰まってたようにも思うし、逆に、それをそぎ落としたからこそ完全版は、みーくん、まーちゃん、僕の三人の物語として生まれ変わったとも思える。

 こんなことを言うのは本当に不本意なのだけれど、ぼくが好きなのは、やっぱり旧作の方だった。その時の作者にしか書けないものが、そこにはあるから。だからこそ、ぼくは完全リライトが読みたかった。今この時にしか書けないもので、今のみーまーを書いてほしかったから。もし、売り上げが好調で、もし、完全版の出版が続いていくのなら、その時こそは今の入間人間氏にしか書けない、今のみーまーを書いてほしい、とぼくは思う。ぼくがこうして文章を書いているのは、ほかならぬ、あの時の「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を読んだからで、そうでなければ小説を書きたいなんて夢にも思わなかっただろうから。

 

春、四月馬鹿の朝に