感想「バードボックス」それ以後に生まれ落ちる命について
あなたは音だけの世界で、人を信じることができるのか?
サンドラ・ブロック主演、視界を奪われた世界を生き抜くサバイバル・スリラー。
上は、Netflixの公式ツイートの紹介文です。今日、見終わったので、感想というか、自分なりに気になった所を。
まず、視界を奪われるという点で、「ブラインドネス」という映画に似ているな、と思いました。だいぶ昔に見たので、詳細は負えないのですが、大まかに言うと、視界がホワイトアウトしてしまう感染症が流行した世界の話です。
両作品とも、見えないことを追った作品ですが、細かい部分ではかなり違いが目立ちます。「ブラインドネス」では誰もが視力を失った世界で、主人公の女性だけがその病に感染しない、という云わば作品の視点となる役割を担っていましたが、一方「バードボックス」ではサンドラ・ブロック演じるマロリーらは、視力を直接奪われていないにもかかわらず、闇と呼ばれる何かを見てしまうことで発狂する、という現象を全くといっていいほど、観察や分析することができません。一貫して、「バードボックス」においては、俯瞰して眺めるということが不可能になっています。マロリーの物語は、パンデミック後の世界の、そのさらに小さな家の中で起こる何事か、なのです。
さて、どうしてこのような話をしたのかというと、この二つの作品は同じものの両極端を見ているのではないか、と思うからです。「ブラインドネス」では感染者の収容所内の騒動が主になっており、そこでは人間の営む組織や社会、共同体が、視力を失うことでどのように崩壊していくのかを描いたものと考えると、「バードボックス」では、家の中の小さな共同体はありつつも、社会やもっと大きなもので言うと、国家というものはほとんど登場しません。つまりこの作品では、視力を奪われた世界で個人がどのように生きていくのか、について描かれたものと考えていきたいと思っています。
そして、もう一つ付言しておきたいことが。それは、「ブラインドネス」では、視力は感染症によって「失う」ものでしたが、「バードボックス」では、視力は、クトゥルフ神話をモチーフにした何かによって、間接的に「奪われる」ものだったということです。
少し前置きが長くなりましたが、ここから本題です。
現代社会は視力に非常に重きを置いた社会だというのは、ぼくがいうまでもないことだと思います。あらゆる交通機関は、視力なくして操ることは非常に困難でしょう。また二十世紀を映像の世紀と呼んだりもします。ぼくらが手にする情報のほとんどは視覚を経由しているといっても過言ではないかもしれません。
今作では二人の子ども、いえ、二人の妊婦が登場します。一人は主人公であるマロリー、そしてもう一人は、途中から家にやってきたオリンピアです。今作のように、パンデミックものといいますか、世界の終末ものというような作品は、子どもを人類の希望として描くことが多くあります。もちろん、パンデミックものに限りませんが。
とはいえ、そのような子どもの扱いはもはやお約束といってもいいと思います。では、なぜそんな分かりきったことを書くのかというと、「バードボックス」において、二人の妊婦が出産をする、ということがパンデミックものに一つ新しい可能性を付け加えたと思うからです。
これは少し穿った見方かもしれませんが、マロリーたちが家に籠城し、出産するまでの日々というのは、妊娠中の女性の不安を象徴するような面があったのではないかと思います。これは想像でしかありませんが、あのひりつくような焦燥感というのは、マタニティブルーと呼ばれるような、不安感に近いのではないかな、と。もちろん、こじつけではありますが。
さて、これまでの作品は、子どもたちを世界の危機からいかに守るのか、という観点で話が進行していましたが、「バードボックス」の出産のシーンについては、世界の危機の後、子どもたちがどう生きていくのか、という視点を生み出したことが新しいと思いました。二人の子どもたち、ボーイとガールが生まれ落ちたのは、それ、つまり視力を奪われた、以後の世界です。少し想像してもらえれば分かると思いますが、それ以後の世界というのはまったく想像の付かないものです。例えば、スマートフォン、インターネット、冷戦、核兵器、ぼくらは生きている限り、数多くのそれ以後の世界に出会います。そして、そのような決定的な何かが起きる最中でも、人は営みを続けますし、子どもは産まれます。
ここで、上記した「視力を奪われた世界」ということを思い出してください。ボーイとガールは、まさに「視力を奪われた世界」へと生まれ落ちたのです。彼らはボートで出発する直前に、ストロベリー味のクラッカーを食べ、マロリーから「これがイチゴの味なのよ」と教えられます。また、マロリーの恋人となったトムが、外の世界の話をしますが、彼ら二人はそれを直接に体験する術を奪われています。けれど、彼らは奪われたということすら意識しないのかもしれません。
ぼくの好きな作品の「まおゆう」にこんな台詞があります。
「(わたし達人間は)あまりに盲いていて愚かなために、ときに自分が何をしているのかもわからずに人を傷つけ害してしまいますが、それでも、そんなに救いようがないほどバカなわけでもないと思うのですよ。(中略)」
()内は意味が分かりやすいように、ぼくが付け加えました。
ぼくらは産まれた環境や受けた教育によって、その世界の見え方が違います。ぼくは上の方で、ボーイとガールは奪われている自覚もないと書きましたが、それは現在を生きるぼくらも同じことです。ぼくらの身体はあまりに小さく、世界を見渡すには足りません。必ず何かの見落としがあり、時代や場所によって、思考や行動に制約を受けるため、真実の世界というものは、人間の認識の構造上、ぼくらが知ることはできません。けれど、真実の世界を知る喜びというものは存在します。
最近はネット上で、リベラリズムやフェミニズム、ナショナリズムといった「真実の世界(カッコつき)」を振りかざす人たちが散見されますが、彼らは真実を知る喜びがあるために、そのような行いをするのだろうとぼくは考えます。繰り返しになりますが、真実の世界を知る喜びは存在します。確かに人間はその領域には達することができないかもしれませんが、そこへ向かって、限りなく近付いていくことはできる。マロリーたちの川下りは、まさにそういったことの象徴のように思います。
目隠しをすることが当然の世界に生まれついて、それでも、それをそういうものとして受け止め、生きていくボーイとガールを見て、ぼくは何だか、人類の歩みのようなものを見た気がしました。何かが決定的に変わってしまった世界でも、子どもたちはその世界しか知らないがゆえに、それを抱きしめ、生きていくのだろう。そして、そんな世界でも、わずかにでも開かれた場で、大人たちからそれ以前の世界について教わるのだろう、と。
ぼくはある時代に生まれたことは特権だと考えます。それはバブルを経験した世代がどうだ、という話や、就職氷河期世代について何か、ということではなくて、全ての時代、全ての場所で、ぼく個人、それぞれの経験は唯一無二だという点で、特権なのです。つまり、ボーイとガールが「視力を奪われた世界」に生まれたことは、それ以前を知らないから不幸なのではなくて、目隠しをすることが当たり前の時代に生まれたこと、それ自体が特権だということです。それ故に、映画のラスト、盲学校に辿り着いた彼らが、目隠しを必要としない世界に心を踊らせることができた、その経験は彼らにしか味わえないことなのだろう、と。
ええと、映画の感想というよりも、それを見て考えたことに近いですね。「バードボックス」に出てくる闇とは、何だったのか、というような話を期待していた方には申し訳ないです。
タイプする指のかじかむ一月