感想日記 夜明けの青

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感想「HOMME LESS ニューヨークと寝た男」 自助努力の通用しない世界

 

 

 「異自然世界の非常食」を最近読み直して、テーマが通底する所があるな、と感じたので、記事にします。それにこの頃、ブログも書いていなかったので、拙くても短くても、書いていくことにします。

 

 詳細は確認していないのですが、どうやらドキュメンタリー映画とのことで、恐らくは本当の話なのでしょう。俳優であり、カメラマンであるマーク・レイは家を持たず、ニューヨークの友人のアパートの屋上で寝泊まりしている。週に何度かジムに通い、そこでシャワーを済ませ、ひげが伸びれば、公演のトイレで身支度をする。いわゆるホームレスであるけれど、他のホームレスと違うのは、綺麗なスーツを着こみ、出版社へ出向いてはカメラの仕事を売り込んで、また、映画のエキストラにも出演すること。月に1200~1500ドルの出費がある、とまで作中では話してみせる。

 

 映画を見ていると、気ままに暮らしている様子が見て取れる。街角で写真のモデルを頼んで見せるし、祭りに出かけて、女の子を(言い方は悪いが)ひっかけてくることも出来る。ホームレスとはいえ、社会性がないわけでもなく、割といっぱしの生活を営んでいる。

 

 それでも、彼が抱えている悩みは小さくない。映画の終序盤には、自分に自信がなく、恋人に愛している、と言ったことがない。そういう自分が不安なのだ、と語ってみせる。そして、恐らく友人関係も同じように、ありきたりで浅い関係しか結べていないのではないか、とぼくは感じた。誕生パーティを開いてもらった場面で、友人のインタビューが流れるが、どれも美辞麗句ばかり。その後の映画のラストで、カメラマンである監督に、「今日は彼が密着を初めて、二年目だ。一番、付き合いが長い」と冗談めかして言っている台詞が、どうにも嘘に思えない。さらには、マークが住んでいるアパート(と言っても屋上だが)には、友人が住んでいる、というのだが、その友人が欠片も画面に映らない。もちろん、ホームレスをしていて、しかもそれが、同じアパートの屋上だとは知られてはならない事実なので(まず不法侵入であるし、そのきっかけは、バカンスに行く友人に家守を頼まれ、その時の鍵を拝借している)映らないのは、それなりの事情があると思うが、それでも、マークの人間関係は希薄だ。

 

 ここに、ぼくはマークの社会性の欠如を感じる。現代社会で生きていくことの出来ない、アウトローの匂いだ(アウトローというと半グレやギャングのイメージが湧くと思うが、ここで言いたいのは、はみ出しものの情けない感じ)。

 コミュ障には二種類の人間がいて、まったく口の回らない人間と、初対面だけ饒舌で距離感のつかめない人間がいる、などとよく語られるが、マークは後者の人間のように思える。より正確に言うと、饒舌すぎるがゆえに、コミュニケーション、相互交流が苦手なのではないか、と。場を埋める会話は得意だけれど、関係性を持続させられない。だから、彼の周りには人がいないのだ。

 

 ここで冒頭の「異自然世界の非常食」の話と繋がる。

 社会性の欠如した人間は、現代社会では生きていけない。マークは片足を社会からはみ出している程度だが、ホームレスにならざるを得なかった理由が、彼の中にはある。そのきっかけは、たかがトコジラミだったかもしれない。しかし、そういったコミュニケーション不全は、蓄積され、ある一時に爆発するものだ。

 

 さて、ここで一つ問いたい。

 社会性の欠如した人間はどう生きていけばいいのか。

 もちろん、自分で自分を「改善」し、変えていくしかない。だが、その考えというのは、啓蒙主義的で、人間は理性でもって、いくらでも良くなっていけるという、いささか楽天的な思想によるものではないか?

 当事者が、そんなことを言えば、当然、甘えだ、聞く価値のない戯言だ、と一刀両断される。それもまた事実だ。社会の側が、リソースを割いて、はみ出しものを助ける理由も利点もない。

 だが、やはり問いかけたいのは、社会からはみ出した人間、はみ出さざるを得なかった人間を、正規のルート、社会へ押し戻すことは可能なのか、或いは、そうすることではみ出し者は幸せになれるのか、ということだ。

 いくら、はみ出しものを助けたとして、社会に根付くことができなければ、再び、はみだしていくことになる。それはつまり、はみ出しものを社会で包摂する際、はみ出し者の生き方、幸せをも包摂しなければならないのだ。

 

 「異自然世界の非常食」では、作品がファンタジーであったため、社会性の欠如した人間を、別の社会性に取り込むことで、はみ出し者の幸福を示した。この作品の主人公は、人間の社会ではなく、異世界の妖精の社会に溶け込むことで、人と人の間に生きるものとしての、人間としての幸福を手に入れた。

 

 では、翻って、今作のマークはどうだろうか。上記した「異自然世界の非常食」はファンタジーであったからこそ、ああいった解決を模索することができた。けれど、現実社会でそれは可能なのだろうか。

 一つには、海外に行くという選択肢があると思う。人が人である以上、大差ないだろうが、価値観の合致しやすい場所というのはあると思う。まあ、自分に最適な場所を、何十年もかけて、探し出すのか、というと、ぼくはかなり馬鹿げた話だと思うが。

 

 結論するとするならば、ぼくは不可能ではないか、と思うし、社会に戻っていける人たちは、元々、素質があった人たちで、社会に戻っていけない人もいるのではないか、という運命論めいた視座であることも確かです。

 ただ、自助努力の通用しない世界がもしあったとして、人間はそれを受け入れられるのだろうか。

 

 

 

 ニューヨークに住むマーク・レイの、カメラマン、俳優としての生き方のキラキラした感覚も、その裏にある、漠然とした不安感も、確かな現実であり、陳腐な表現だけれど、誰もが抱えているものなのかもしれない、と思います。

 

 書いているといつも、作品を利用して、自分の語りたいことだけ語っているように感じる。実際、その通りなのだろうけど、どうすればいいのかも分からない。

二日前まで温かかった十一月の寒い夜