感想日記 夜明けの青

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感想「わが心のフラッシュマン ロマン革命PART1」 人間の本能と物語

 

わが心のフラッシュマン (ちくま文庫―ロマン革命)

わが心のフラッシュマン (ちくま文庫―ロマン革命)

 

 

 自分も詳細は知らないが、恐らくは特撮シリーズのうちの一つ、フラッシュマンに端緒を発した物語論プラス、中島梓あるいは栗本薫の創作論。前半は、テレビの本放送を見ることもなく、ただTV雑誌や、こういう特撮にありがちな、TV絵本の情報だけを基に、語られる作家としての感性や想像力についての話が盛りだくさん。後半は、もうフラッシュマンなど放り投げての、物語そのものに関する論考が綴られる。

 

 前半の、ワラキア、パロ、クリスタル公アルド・ナリス、黒海湾の女王ベリなどなど、グインサーガのネーミングから始まった、言葉のロマンの話や、サー・カウラ―についてのとめどない妄想など、面白い話は沢山あるのだけれど、今回注目したいのは後半部分。

・「本能がこわれたが動物」である人間にとって、最大の本能は自己幻想欲である

・文学とは「こわれた物語」の物語

ライナスの毛布としての物語

・物語は全て「個と世界」を取り扱ったものである

 などについて、考えてみたい(と格好つけたことを書いたけれど、どうなることかは分からない)。

 

 まず、自己幻想欲について。これはセルフイメージと言い換えた方が分かりやすいのかもしれない。本の中では、アラビアのロレンス青髭を例に挙げて、その説明がされている。彼らに共通するのは、世間からの評価が自己の力量を大きく上回る形で、名声を得た点にある、と中島梓は書いている。彼らは異様な名誉を受ける環境に適応すべく、評価に対して自己のイメージを同一化させていくが、ある時、それがなくなった瞬間に、過剰適応した自我が自己幻想との齟齬を生む。ロレンスであれば、中東での英雄扱いから、イギリスに戻った時の落差。ついには、自分が砂漠での任務中に拷問を受け、さらには男に強姦されたという物語を語るまでに陥ってしまう。

 これは、肥大した自我(あまり使いたくない言葉だけれど)が、自分を英雄視していることと世間との評価の齟齬を埋めるためのものであり、英雄とは受動態だ、と彼女は語る。自らを英雄とするには、される者としての立場を得ること。そのためにロレンスは不名誉ともとれる強姦の話をでっちあげ、青髭は少年を拷問した。

 二人の例は極端なものかもしれないが、日常において、この自己幻想(セルフイメージ)との乖離を埋めるために、自分を物語化する行為は、多く見られる。例としてはダイエットをする女性たち。彼女たちは痩せていなければならない、痩せないと愛されない、という観念を持ち、それを実践する。そうでなければ、太っている自分に耐えられないからだ。かといって、必ずしも痩せる必要はない。今自分はダイエットしている、つまり痩せていく過程にある、と自分を物語化することによって、自己幻想の溝を埋める。

 中島梓は章の冒頭で、人間には本能などない、と極論する。食欲、睡眠欲、性欲のいずれも本能の働きかけによって、食事をしたり、睡眠をとる訳ではない、と。拒食症の人間はそのように説明される。食欲という本能を上回る形で、痩せなければならない、痩せていく物語に適合する自分でなければならないものとして、後天的な本能――自己幻想欲があるのだ、と。

 

 人はパンのみにて生きるにあらず、と言う時、必要とされるのは、こういった物語なのだろうな、と思った。ここでいう物語とは、小説や漫画のかたちで提供されるものだけではなく、むしろ、それがなければ生きていけない、と思う自分自身に対する認識の形としての物語だ。

 例えば、自分は小説を書き続けなければ、生きている価値がない、と思い続けるのは、自己の物語化の一部だと思う。これを読んでいる人も、セルフイメージを守るためだけに、自分をさらなる窮地に追い込んでいく人物というのは、もしかすると身近に思い当たる人がいるのかもしれない。

 

 次。

 中島梓は、サルトルの「嘔吐」を例に取り、物語化能力の欠如した人間の物語として文学を定義づけている。枝葉である、と書いてあり、それ以上の言及はないのだけれど、これはぼくにとって、かなり興味をそそられる。

 彼女の人間観では、人間に正常と異常の別はなく、誰もが異常であり、その中に正常モード、ある程度の閾値を持った幅のあるものとして、普通がある、と考えている。そんな中、人間には「観客モード」と「ヒーローモード」があるとし、その使い分けによって、人は生きている。また、そのどちらかに偏ることで、異常へと傾くことになる。観客であると自分を規定し、ただ眺めているだけでは自分の人生は生きられないし、かといって、英雄になりきりすぎれば、上記のロレンスや青髭のようになってしまう。

 そういった文章の終わりに、文学についての一行がある訳だ。最近、初めて知ったのだけど、カンヌ国際映画祭だったかの「ある視点」部門というのがあるけれど、あれは、個人の感性に依った、独特な世界の切り取り方について評価を与える部門だ、と聞いて、驚いた(間違っていたら、申し訳ない)。また、石原千秋さんは文学を「解釈の多様性を楽しむ芸術の一つである」とたしか、書いていた。その二つを踏まえると、文学とはアウトサイダーからもたらされ、評論家たちが、それを普通の言葉に置き換えることで、一般に流通していくものなのかもしれない。

 

 次。

 この本自体が、子どもがフラッシュマンにはまったというところから書き始められているので、それを前提にした話なのかもしれないが、物語とはそれを楽しむものがやってきて、そして、いつかは必ず去るものとされている。これはぼくが何度も記事にして、気にしているライナスの毛布についての話と同じだ。ぼくはこれを読んだとき、何度も同じ物語を耽溺し、解釈を深めていくオタクには通用しない話だと思っていたのだけれど、どうも考えてみると、物語の体験は絶対に、読者がやってきて、終わりには、彼らは去っていくものらしい。まったく気付いていなかった。

 次の話に繋がる部分でもあるのだが、物語世界に入ることで、読者は色々な生き方を学び、体験できる、と書かれている部分があり、それは物語に対する彼女なりの擁護なのかな、と思ったりする。どうも、物語は役に立つことを放棄しているらしく、これで何とかができるようになる、などというのはまったく無意味で、ただ面白いこと、それだけに価値があるらしい。なぜ、らしい、なのかというと、それは又聞きだからだ。ぼく自身、物語に対する姿勢を決めきれずにいる。だから、面白ければそれでいい、と決意した人たちのことは大変、眩しく思える。一方で、中島梓が物語を通して、世界との対話の仕方を手に入れる、と書くのは、彼女自身の生き方の問題に通じているものがあるのかもしれない、と思うと、その意味もおのずと変わっていくだろう。つまり、二週間ほどで一冊の長編小説を書き上げる人間など、はっきりいって異常だ(もちろん、言葉の綾である)。しかし、彼女はそういう人間であるし――別の誰かの話と混じっている可能性もあるが――現実の世界よりも物語の世界によりリアリティを感じる人だったとするならば、物語を通じて、生き方を得るというのは、人間の限られた感受性の中で生きていく、処世術なのかもしれない。

 どれだけ物語の没入しても、いつか、その夢は破れる運命にある。まったく意識していなかったので、これは書きとめておくことにした。

 

 最後。

 輪るピングドラムのイメージとも重なるのだけど、人は監獄に閉じ込められた存在であり、知覚に全知はなく、狭い格子越し、そこから手を伸ばせる範囲だけが、世界なのだ、とする人間観は、とてもかなしく、とても力強いものに思える。物語は私、唯我論から始まり、価値観は多様化していく。世界は監獄の寄り合いであり、価値観の乱立だからだ。個と世界、フレームワークとして覚えておきたい。

 

 

 

 しりすぼみになってしまった。集中力が足りてない。けど、まあ久しぶりの記事だし、これで勘弁してください。個と世界。これはキーワード。