感想日記 夜明けの青

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感想「折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー」え、これもSFなんですか?

 

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)

  • 作者:郝 景芳
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/02/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 記念すべき100記事目。といっても、ほとんどが最近見たものという備忘録なのだけど。まあ、とにかく感想。

 

「鼠年」

 もしかするとアンソロジー中、一番好きかもしれない作品。遺伝子改良された鼠がペットとして広く浸透した世界の話。主人公は大学生で、脱走した鼠を駆除し、よりよい就職先を手に入れるため、軍隊に入る、という物語。

 恐らく、この作品のポイントは、虚実入り混じった描写だと思う。死んだはずの豌豆がある夜から、再び生きたように彼の主観の中に入り込んでくるのだけれど、それは過去の回想とも思えるし、或いは、主人公が見ている幻覚ともとれる。

 ぼくはもっぱら鼠が高い知能を有し、原始的な儀礼や集落を作り上げたというほうが現実だと思いたい。もちろん、その方が面白いから、ぐらいしか理由が思いつかないのだけれど、そう考えると、豌豆がかわいがっていた子鼠を穴に入れ、罠を作った話などが、彼自身の鼠に対する解釈の話だと理解できるからで、つまり、主人公が見た不可解な鼠の集落の説明として、豌豆のエピソードが活用されているのではないか、ということだ。これはわが心のフラッシュマンの記事で書いたと思うのだけれど、物語化する能力について、の記述として、鼠年は面白い。主人公の彼は、鼠の高知能を、豌豆を絡めることによって理解しようとしている。そしてそれは破綻せず、物語化に成功しているように見える。だから、彼は生き残るのかもしれない。

 作品中で繰り返される、チェス(グレートゲーム)のメタファー。駒である兵士たちは、一手一手を追いかけることはできても、それが意味することまでは理解できない。駒が盤全体を見渡すことができないからだ。それを考えると、この物語の持っている限界が見える。つまり、これは主人公が見た世界であり、その全ては説明されていない、というところに落ち着く。

 最後の進軍のシーンで、ヘイパオによく似た鼠に襲われるシーンがある。それが果たして、本当にヘイパオだったのか、それとも主人公が鼠をヘイパオと錯覚していたのかは、分からないまま終わる。これはやはり二通りの解釈が可能で、鼠はヘイパオではなかった。ただ主人公がそう見ていただけ、という解釈と、本当に鼠は人間の認知を曲げる能力がある、という解釈。上記したように、ぼくは鼠が高い知能を持っているという解釈に依っているので、あれはヘイパオだったと思うのだけれど、さらにさらに上述した通り、主人公の主観は、信頼できない語り手でもあるので、その解釈は一向に定まることがない。それ自体が、とても面白い作品だと思った。

 

麗江の魚」

 中国と必ずしも結びつけて考えない方がいい、とまえがきにあった通り、無国籍のにおいがして、とても面白かった。それと、時間の流れ方についての話も。仕事などつまらないことをしている時、時間の流れが遅く感じる。また面白いときはその逆、という相対性理論のたとえ話でおなじみのことでも、それは科学であり、実用化された技術・テクノロジーなんだ、という語りが、ほう、と息が漏れるほど、感心した。精神の時間を加速させ、時間以上の働きを引き出す。折りたたみ北京でもこのテーマが出てくるけれど、基本的に現代社会は時給に代表されるように、時間を売って、給料をもらう場合と、成果を売って、給料をもらう場合があり、この働き方の違いから、格差が生まれていると言っても過言ではないと思う。より有能な人は成果を売って、金をもらう訳だけれど、それが行き過ぎると、つまりは今作のようになり、時給を切り詰めていくと、折りたたみ北京になる。有能はより働かせ、無能は切り捨てる。互いがその行き詰まりという感じか?

 

「沙嘴の花」

 麗江の魚、では無国籍といったけれど、逆に今作は、中国が持っているイメージを存分に使った作品だと思った。九龍城という団地をもっとパワーアップさせた建物が、昔、中国にあったと思うけれど、今作はまさにそこが舞台のような感じで、読んでいた。巫術などもしっかりテクノロジーで補強されていたけれど、個人を切り離し、収容する監獄としての集合住宅の一室で、それが行われている魅力、演出がずば抜けていたと思う。

 

百鬼夜行街」

 ここから続く三作はシア・ジアさんの作品なのだけれど、どれも好きだ。SFというよりファンタジーでは、と思うのだけれど、どれもしっかりSF要素が入っていて、興味深い。自分はSFの教養がないので、まあ、何とも言えないが。

 今作、以前見た、クボという映画に似ているな、と思った。まあ、これはイメージの話。物語自体は、恐らく自己認識の話で、主人公のことを百鬼夜行街のみんなが人間だと思っていたのに、たった一度、燕が、あれは本当に人間か、と話している場面を聞いただけで、自分が何者なのか分からなくなってしまう。

 状況を見ると、主人公は人間であっていいはずなのだけど、結局、それを主人公自信が否定することで物語が閉じてしまうという悲劇、なのかな。

 

「童童の夏」

 遠隔操作ロボットを使い、おじいちゃんが革命を起こす話。小説はそう長くないのだけれど、おじいちゃんが家に来ることになって、いさかいがあり、ロボットが来て、おじいちゃんがそれを操縦するようになるまで、そして大革命、という流れが美しすぎて、ラストが余計に胸をしめつけられる。

 子どもの頃、大人は誰もが口うるさくて、嫌いだったけれど、でも今思い返せば、そこには無数のやさしさが溢れて、自分を包んでいた、そういう世界のことを、もう一度、思い出させてくれる作品だった。

 

「龍馬夜行」

 SFというより幻想小説という方が、しっくり来る気がする。大きな機械である龍馬は、以前見たことのある、ヨーロッパのどこかで興行をする、手動の大型ロボットのイメージ。

 物語自体はシンプルで、生きて帰る物語といった感じ。ただ上の二つもそうだけど、物語の原型を扱うのが、上手い人なんだな、という印象。

 好きなんだけれど、好きなだけに言葉が見つからない。

 ただただイメージの美しさばかりが頭に浮かぶ。巨大機械の飛び出た角にぶらさがる蝙蝠の画が本当に美しい。

 

「沈黙都市」

 華氏451のオマージュであり、多分、創作論そのものに踏み込んだ作品。禁止語が増えれば増えるほど、表現の数が増していくというのは面白い示唆で、さらにその上、使える言葉を指定することで、さらに表現を規制するというのは、本当に見習いたい発想力。

 これをどうして創作論と思ったのかは、自分でも謎が多いのだけれど、思ったのは、先行する作品を参照するごとに、表現は少しずつ変容していくことと本作の規制の流れが似ているからかな、と思った。本作は「1984」を暗唱する女性がいるように、まさに華氏451へのオマージュから生まれた作品だと思うけれど、だからこそ、華氏451との差異を示さなければならない。それは、上で書いたように、禁止語を受けて、バリエーションが増えることの変奏に思える。さらに言えば、オマージュであるのだから、オマージュ元が分かるように、使える言葉が指定されている、とも読めるわけで、ディストピアものという読みよりは面白いと思う。

 余談だけれど、ぼくはディストピアものが腑に落ちないことが多い。というのも、どんな不自由も、そこで暮らしている人がいる訳で、現代日本アメリカから見れば、人権のない国は暮らしにくかろうと思うけれど、そこで暮らしている人はやっぱり、そこで暮らしている。その事実は覆せないと思う。ディストピアものの主人公のほとんどが、ディストピアに不幸を感じていて、そこから抜け出していくけれど、それ以外の多くの市民は主人公の鬱屈とは無関係に、生活を生きていく訳で、それを考えると、読者の現在から、ある社会をただ断罪しているだけではないか、と思ってしまう。

 

「見えない惑星」

 これもまた物語論を含んだ物語なのかな、と思う。

 まあ、それはおいといて、好きなのは「アミヤチとアイフオウー」の話。特に、夏期アミヤチ人と冬期アミヤチ人の気付かぬサイクルはお気に入り。ぼくはよく生活サイクルが壊れて、昼夜逆転生活に陥るのだけど、夜に起きて、朝に寝る生活をすると、まったく世界と接点がなくなる訳で、そう思うと日勤と夜勤を繰り返す人というのは、きっと一生出会うことはないのだろうな、と。

 そんな風に考えると、今作に出てくる惑星の話はどれも人間のメタファーのように思える。だけど、作中にあるように、「話はなにも集めない。もともとばらばらの運命なのだ」。

 ぼく自身は、物語は物語であって、それ以上でもそれ以下でもない。人生の教訓や役立つ知恵を手に入れるためにあるのではない、という立場にはちょっと否定的で、もちろん原義はそこにないとは思うけれど、物語からそれらが得られないとも思わない。話は分かるけど、でも、ぐらいの気持ちでいる。そうすると、物語は何を言っているの? いや、何も言っていない、ということになり、それは虚無ではないの? と思ってしまう。虚無としての物語、それも格好いいけどね。

 

「折りたたみ北京」

 ルービックキューブ状に折りたたまれた北京を巡る旅行記。三層、二層、一層とより上級のスペースへ上がっていく様は、見ていて、ドキドキする。以前、未来少年コナンの三角塔が、下に行くほど貧民で上が豊かであり、その様子をビジュアル的に説明している、という記事を読んで、なるほど、と思ったけれど、これはそういう意味では、またぶっとんだ作品だなと思った。ここで選別されているのは金銭的な豊かさだけでなく、時間的な豊かさも、切り分けられ、区別されている。

 上述したけれど、資本主義社会は成果を出す有能な人にはより一層働いてもらいたいけれど、あまり成果を出さない、時間を切り売りするような労働者にはお金を払いたくない、というどうしようもない現実がある。かといって、人類の大多数を占める労働者を切り捨ててしまったら、その分の消費、経済はどうするのか、という問題がある訳で、折りたたみ北京はそれを解決するために、時間さえ平等に与えない、という答えを出した訳だ。それを説明された途端、あーっと声が出た。自分自身、転職活動中なので、求人をよく見るのだけど、アルバイト募集はもうそういうかたちになりつつある。短い時間を多くの人で分け合って、一人当たりの稼げる額が少なくなっている。それを目の前に突き付けられて、思わず声が出たわけだ。

 まあ、勿論、そういう仕組み的な面白さ以上に、主人公のラオダオの目的がはっきりしていて、さらには、それを依頼してくる二層の学生の目的など、作劇の一手間というか、手管がすごく洗練されているな、とも思いました。すごい。

 

「コールガール」

正直、理解しきれていない。もっと読み込めば、面白いのかもしれないけれど、正直に言えば、ネット小説にありそう、くらいの感想しかない。テーマも分からなければ、ディテールも分からない。あとで、ネットの感想、漁ってみます。

 

「蛍火の墓」

 時間の謎が順を追って、説明されていく手際が凄いと思った。あわせて、時間のずれについて、何か考えたはずだけど、思い出せない。夏への扉、読み返したいな。

 

「円」

 スパコンを紀元前に作り出すという想像力が、はたしてどこからやってきたのかを、ぜひ聞いてみたい。しかし、三百万の兵隊を並べて、計算を行うというスケールの大きさと清々しさ、そこに至るまでの、問題、難関、解決の流れは見習いたい。そして、それにオチをしっかり用意している勤勉さも。

 納得感がすごい作品だな、と思った。説得力がある。

 

「神様の介護係」

 円に続いて、スケールの大きな馬鹿話で、春の青空のように底抜けに明るい。この明るさは大好物です。話の最期に、地球は神が作り出した生物の末子、四番目だよ、と明かされる辺りの、物語の開かれ方は、うわあー、と思いました。

 

 

 

 まあ、そんな感じです。後半、集中力が切れた感じです。でも、語る言葉を持ち合わせていないのも事実。文量の多さは、だいたい好きの度合いに比例してます。終わり。

 

 寒さのわずかに緩んだ一月の夜