感想日記 夜明けの青

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感想「だから私は推しました」 このせつなさは百合ではない

 

 

 撮りためていたものをようやく見れたので感想です。初めは、百合を期待してみていたのですが、いい意味で期待を裏切られました。非常にいい作品だったと思います。

 

 特に、ラスト八話のせつなさについて、今回はちょっと書いていこうと思います。

 

 ぼくが個人的に気にしているものに、物語の形、定型というものがあって、大塚英二さんの著書で読んだ方も多いと思うのですが「ライナスの毛布」という、定型が存在します。

 ライナスは、スヌーピーに登場する男の子で、いつも幼児用の毛布を持っていて、それは心理学的用語で言うと、移行対象というらしいです。この移行対象の役割というのが、母との同一性を失った幼児が、不安定な外界と接する時、安定したもの(これまで長く触れていた毛布など)を求める、という心の動きを表すらしいです。

 

 これが物語に適用されると、主に青春期の子どものカウンセリング的なものになっていきます。最近、ぼくが見たものだと「なんだかおかしな物語」や「パイレーツ・ロック」などがそれにあたると思います。

 上にあげた二つは、主に「ライナスの毛布」が環境であることに特徴があります。子どもが外側からやってきて、ある環境に順応する。順応するうちに、彼ら自身にとって自然な心の動き、表し方を学び、最後には、その「毛布」の内から飛び出していく。大抵の場合、毛布は外からの要因で、失われることが多いです。

 一方で、大塚英二さんが「人身御供論」で説明しているように、移行対象が人になることもあります。こちらは「コープスブライド」で記事を書いているので、良ければ、読んでみてください。

 

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 そして「だから私は推しました」ですが、これは前述したうちの前者、毛布が環境を示しているパターンだとぼくは思います。

 この物語における「毛布」は、アイドルグループの「サニーサイドアップ」です。主人公である、愛とハナにとって、成長の場であり、別れの場でもあった「サニーサイドアップ」は、アイドルにとっても、彼女たちを追いかける多くのファンにとっても、育み、失われる場でありました。

 

 ぼくがこのドラマで、ものすごく高度なことをやっているな、と(上から目線で恐縮ですが)思ったのは、この点で、主人公二人の成長物語(しかも、時系列を遡りつつ、犯人が犯行を語る倒叙)でありながら、地下アイドルという場を描き切った所に、脚本をまとめる技量の高さが見えます。

 例えば、小さな話ですが三話のオタバレ回で、サニサイのしおりちゃんを応援している学生が、自分も好きなものを好きだと言えない(推せない)という悩みを持ちつつ、最後には克服してみせる様だとか、オタクのリーダー的存在の小豆くんとサニサイのリーダーの花梨の関係、花梨がアーティストデビューを夢見ながら、アイドルを全うし、そして旅立っていく姿だとか、細かく細かく、サニサイが成長する場であり、やがて失われるものだという描写が繰り返されます。

 

 これは雑感ですが、地下アイドルという世界は、そういったことが日常の光景に近いのではないでしょうか。また地下アイドルに限らずとも、卒業、引退、解散、他界(オタクをやめること)など、場が突然になくなってしまうことは、アイドルの必然のように思います。

 アイドルだって恋人がほしい、他の生き方を選ぶ権利がある、などなど様々、アイドルをやめる理由を見つけることができます。

 時に、心ない言葉が投げかけられることもあるだろうと思います。「いつかなくなるものに意味なんかあるの?」と。

 

 ですが、ぼくは逆に言いたい。なくなるものだからこそ意味があるのだと。なくなるということは変化が起こるということでもあります。今作において、サニサイは解散してしまいますが、そうすることによって、愛とハナは自分の人生を掴み取ることができたのです。

 

 そしてそして、八話のせつなさに話は戻ってきます。

 愛は取り調べを受けていたせいで、解散ライブに参加することができませんでした。取調室という異界から、現実へ帰って来た時、既に「ライナスの毛布」は破けてしまっていたのです。

 それでも、愛は会社を辞め、次の生活へ向かって、舵を切ります。そんな中、解散ライブを録画していた映像を、オタ仲間たちと見ることになり、愛は「サニーサイドアップ」という場が、もはやないということを悟るのです。

 

 愛とハナの関係を語る時、外せないのが、本作を印象付ける、象徴ショットがあります。第一話や、七話の仲直りのシーンで、お互いがせいいっぱいに手を伸ばして、ようやく、離れた二人の真ん中で手をつなぎ合うショットがありますが、それが示すように、「サニーサイドアップ」は二人の人生において、本当にわずかしかない、接点だったのだと気付かされます。

 ここで「いつかなくなるものに意味なんかあるの?」という質問にもう一度答えるならば、「なくなったものを思うからこそ、今、随分と遠くへ来たな」と思うことができるのだと思います。ぼくは、本当に素晴らしい物語の完結を見届けると、遠くまで旅をしてきたような気分になります。始まりから終わりまでを思う時、その道のりや変化を尊く思うのです。

 

 さて、本作の大枠が「ライナスの毛布」じゃないか、と話を進めてきましたが、それ以外にも好きなシーンは沢山あって、特に小豆くんと花梨が、解散について話すシーンで、応援される立場のアイドルである花梨が、ファンの小豆くんに対して、「私だけを思ってくれる、一番のオタクじゃなきゃ嫌だ」というセリフには、正直痺れました。

 応援されるもの、応援するもの、という立場から、その関係性が不均等になるのはアイドルに限らず、多くの関係性に言える、宿命的な問題ですが、タイトルにもなっている通り、推し、という言葉の発明は革命的だと思っていて、本来受動的だったファン活動が、推すことによって、より能動的な意味に変わったのではないかな、と。特に、推し、と言う時、ファンの顔がより前面に押し出されることで、ファンが広告塔になるというイメージをぼくは持ちます。

 上のシーンは、何だか、その極北かな、と思う訳です。ファンとアイドルの距離が近くなって、反転してしまったような。花梨の台詞は従来だったら、ファンの側から発せられるべき言葉だったのかな、なんて。

 

 あとは二話の愛と小豆くんの対面のシーンで「オタクって本当にお宅って言うんだね」という愛の台詞を受けて、小豆くんが「おばさんだね~」と返すシーンも、何だか象徴的だな、と思ったりします。というのも、この作品は対称性が強調されているように思っていて、愛とハナ、愛と瓜田さん、愛と小豆くんなど、それぞれが鏡の裏表のような感じがするんですよね。やりとりが往復書簡的と言うか。

 

 さらに、三話の愛の同僚が、愛とハナの関係を共依存だよ、という所も、決してこの話をただの美談で終わらせないぞ、という制作側の意気込みを感じて、好きだったりします。傍から見たら、やっぱり瓜田さんと愛のやってることは、ほとんど同じだと思うんですよね。これってコミュニケーションの難しい所でもあって、同じことをされても、好きな人と嫌いな人だったら、感じ方が違うように、もうそれは人間の物事の受け止め方にインストールされている、本能的な部分だと思うんですよ。しっかりと愛とハナの関係に批評性を残している、という隠れた名シーンだと思います。

 

 あとはやっぱり、六話のラストですかね。ぼくは物語を見て、傷付きたいタイプの人間なので、ああいう辛いシーンがあるとうれしいですね。特に、嘘つく時、瞬きするよな、的なシチュエーションは大好物だったりします。不穏な空気って、落差よりもじわじわと広がっていく方が面白いんですよね。

 

 と言った所で、そろそろ終わりにしようと思います。あんまり長くても仕方ないし。「だから私は推しました」ものすごく面白かったです。