感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「ゾンビランドサガ」何者にもなれない私たちの生き様

 

 

 唐突だけれど、売れない小説家が報われるにはどうしたらいいだろう?

 やっぱり小説が売れてくれるのが一番だろうが、そうはならなかったから売れない小説家をやっているのだ。彼の書く小説が売れる訳がない。

 それでも、彼が報われたいと思った時、救ってくれるのは読者だけではないかと思う。例え、彼の小説が売れなくても、たった一人の読者の心を動かしたという事実があれば、彼は満足して、小説家としての一生を終えられるだろう。

 

 では、売れない小説家にもなれない、小説家志望の青年は?

 恐らく、答えは同じだろう。今の時代、アマチュアが作品を世に出すのは難しくない。たった一つでも、いいねやスキをしてもらえたのなら、必ずしもそうなる訳ではないが、報われたと感じるに充分だと思う。勿論、小説家になれるのに越したことはないが。

 その点、クリエイターは幸運かもしれない。作品を世に出して、出し続けて、いつか報われる日が来るだろうから。

 

 さて、では本題。ステージに立てないアイドルはどうすれば報われるだろうか? また、アイドルにもなれない、アイドル志望の少女は?

 そう、それこそが「ゾンビランドサガ」の主人公、源さくらなのだ。

 

死んでも夢を叶えたい

いいえ、死んでも夢は叶えられる

それは絶望? それとも希望?

過酷な運命乗り越えて

脈がなくても突き進む

それが私たちのサガだから!

 

 OPの前口上が示しているように、まさにこれがこの作品のテーマでしょう。以前、レヴュースタァライトの記事でも書いたことですが、この報われない人たち、何者にもなれない私たちに残された道は何か、というと、それは死ぬまで頑張る事でした。レヴュースタァライトでは「ワタシ再生産」の名のもとに、その生き様が示された訳ですが、「ゾンビランドサガ」は設定から言って、その先を行くものです。

 

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 はじまりは2008年、アイドルオーディションに応募するための封筒を投函しようと、外へ出たさくらは、トラックに轢かれ、ゾンビとして転生します(トラックで転生って、もう様式美なんですね)。そんな彼女は、同じくゾンビとして甦った仲間たちと、時に衝突し、時にステージに立つ喜びを分かち合い、アイドルとして活動していきますが、生前の記憶を失っていた彼女は、第10話のトラック事故が原因で、ゾンビとして甦った期間の記憶を失い、代わりに生前の記憶を取り戻します。

 ここからが、ぼくの注目したいポイントで、このゾンビとしての記憶、つまりアイドルとしての記憶を失ったさくらは、生前の自分がどれほど持っていないか、ということを嘆き、アイドルとしてステージに立つことを拒みます。これは、上記した報われない人たちの再演です。

 生前、どれだけ頑張っても報われたことのないさくらは、今以上の努力を拒みます。もう何をやっても無駄という嘆きは、何者にもなれない自分を抱えている人には、痛切に響くのではないでしょうか。記憶を失い、ステージに立ったことを忘れたさくらは、仲間にどれだけステージの輝きを力説されても、それを実感することはできません。上に出した例えで言い換えるなら、誰にも読まれない小説を書き続け、書き続けて、それでもまだ頑張った先で死んでしまった小説家が、どうしてもう一度筆を執ろうと考えられるか、ということでしょう。

 それでも、そんなさくらを救うのは、昔の記憶であり、昔の仲間です。アイドルとして、ファンからの期待を受ける自分。誰よりも熱心にレッスンをこなした自分。それらが繋がって、最後のステージで実を結びます。が、ここで勘違いしたくないのは、強風によって半壊した舞台上で、もう一度立ち上がることを決めたのは、やはりさくら自身だということです。物語上は奇跡的なタイミングで音響が回復しますが、あそこで繋げられたのは、さくらが「甦れ」と唄い上げたからに他ならないのです。もし、さくらがあの時、諦めていたのなら、壊れたステージであんなに綺麗に、歌に戻ってこられなかったでしょう。

 

 さて、以前レヴュースタァライトの記事では、この展開を批判しました。報われない人たちが報われないのは、ステージ上の喜びを知らないからです。一度でも、ステージに立ったことのある者は、その輝きを胸に、いくらでも立ち上がれる、とする物語にぼくは疑問を持っていました。

 勿論、ステージ上でさくらがもう一度唄い始めたのは、彼女自身の決意ですが、それ以前に、ステージまで彼女を引っ張っていったのは、喜びや輝きを知る仲間であったという点が、やはり不満ということです。

 アニメという媒体上、これを表現するのは無理なのだろうか、とぼくは考えました。カタルシスを提供するには、どうしてもアイドルはステージに立たなければならない。例えば、バッドエンドものを作ったとして、そんなアイドルの物語を誰が見たいと言うのか、まず、そんな物語は面白いのだろうか。

 

 ですが、ふと思ったのです。どうして報われてはいけないのか、と。小説家はたった一人の読者によって救われることができるなら、アイドルもまた同じではないか。例えば、さくらには巽という存在がいました。彼はさくらの同級生であったことが示唆されていますが、そんな巽がさくらの努力を知っていた、それを認めていたという事実一つで、本当は報われるのではないか、と。そういう意味で、第11話の巽の言葉も理解するべきなのかもしれません。

 けれども、それでもあえて苦言を呈するなら、第11話と第12話の二話を、報われない人の描写に使ったのは、悪手だったのではないか、とぼくは思います。というのも、視聴者はさくらがどのようにアイドルになったかを知っている訳で、1クールの終盤に彼女がステージには立てないと嘆いても、視聴者は「あの時の輝きを思い出せ」としかならないのではないか、と。

 

 言った所で、この記事も終わろうと思います。今回はボクの考えるテーマに沿って、作品を弾劾しましたが、「ゾンビランドサガ」自体は、とても面白く見ていました。特に二話のラップ回で度肝を抜かれてからは、毎週の楽しみでした。OPを初めて見た時の衝撃も忘れられませんね。

 

クリスマスの次の日の夜