感想日記 夜明けの青

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感想「あかねさす少女」自分という魔に出会う旅

 

あかねさす少女 vol.1[DVD]

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 夕方の薄暗い時を、黄昏、逢魔が時と呼ぶのは、陽が陰り、暗くなっていくその時が不吉な時間だと信じられていたから、だという。

「誰ぞ彼」と呼びかけるのは、見知らぬ誰かこそが、その魔であるからだろう。

 

「あかねさす少女」は、まさに見知らぬ誰かに出会う物語だった。しかし、出会うのが魔物や他人とは限らない。自分とは、もっとも身近な他人の別の名前にすぎないのだから。

 過去や未来の自分が、今の自分自身と同じものだという証明は、どうすればできるだろう。六年に一度、全ての細胞が生まれ変わるという人間の身体が、その時点で既に、今の自分が、数秒先の自分と同じではないという証明になってしまっている。
 では、記憶だろうか。スワンプマンという思考実験が指し示すように、それは、信じるかどうかという一点に、アイデンティティが委ねられてしまう。
 では、人格? 数秒前に怒っていた人が、途端に笑い出すことなど珍しいことでもない。ある右翼の活動家が、年を経て、左翼に転ぶなんて話は、掃いて捨てる程ある。

 結局、ぼくらがある地点から、ここまでやってきたという履歴だけが、過去と今、そして今と未来を繋ぐ線になる。ここまで来た私が、たった一人の人間であるということ、右を選んだ私と左を選んだ私が、同時には存在しないことだけが、自分自身を証明するのだろう。

 

「あかねさす少女」においては、異なるフラグメント(パラレルワールド)へ移動することによって、今の自分とは異なる自分自身と対峙することになる。彼女たちは、空間移動の際、異次元の自分と融合を果たし、他の四人の少女が他フラグメントで自由に行動することを可能にする存在、楔として、私と「私」の違いを実感する。

 また彼女たちの違いは、次元に限らない。少女たちは、わずかな過去や未来の自分を垣間見ることによって、現在の自分の立ち位置を確認する。

 例えば、クロエは近未来のリゾートバカンスで、ラジ研に所属する前の自分に出会い、また、みあは西部劇風の世界でヒーローになりたいという志を叶えた自分に出会う。

 だが、それらはやはり、自分の姿をした他人でしかない。異なる世界、異なる価値観の中で、様々な選択をした末に自分という存在がある。ならば、シリアスカがアスカであって、アスカでないのと同様に、彼女らは彼女であって、彼女でない。

 

 一方、自分という型に囚われているのが、優と明日架であり、今に固執するあまり、変わってはいけないと自分に課している様は、独我論に似ている。

 自分のことばかり考えるということは、世界には自分の他には誰もいないと考えることに近い。個人は全てが、人格の意思の力で出来ているのではなく、当然、環境に影響を受け、事故や事件によって偶発的に形成される。

 それが理解できなければ、世界はいつまでも閉じたままだろう。

 彼女ら二人が幸運だったのは、互いが側にいたことに尽きる。本当の自分に出会うこと、それはつまり、自らの欲望に気付く自分になることだが、優の欲望は明日架にあり、優の姿を見た明日架もまた、本当の自分に出会うことが出来た。

 どんなに哀しい出来事も今の自分を作り上げたのだ、と良い悪いという価値を忘れ、ただ事故を抱きしめることで、それは可能になる。

 

 少女たちは成長の証として、イコライザーというウォークマンに似た機器を手にし、ディプリケート(変身)して戦う。

 物語とは時間を区切った、人間の葛藤のリプレイであり、神話において、人物の成長は神器や長い旅路で表された。しかし、本来、人間の成長とは目に見えないものであり、スキルの習得には長い時間を要するものである。

 すると、成長した少女たちは物語という圧縮された時間の中で、特権的に力を振るうようにも見える。

 しかし、橘田先生に拘束され、その成長を否定された時、少女たちは本当の意味で成長への道を歩みだす。わずかでも変わってきた自分たちを認め、今の自分が過去の自分と違うと信じる少女たちは、あちらとこちらを行きつ戻りつしながら、もがき歩いていく。

 少女たちは伸ばした手の先に、世界が掴めると実感しており、自分という魔に出会った彼女たちは、同時に世界に出会う。

 

 

というのが「あかねさす少女」の物語だったのではないか、というお話でした。

風に悩まされる師走