感想日記 夜明けの青

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感想「少女不十分」著 西尾維新 クリエイターの原罪とは何か

 

少女不十分 (講談社ノベルス)

少女不十分 (講談社ノベルス)

 

 

「小説は飢えた子どもを救えるのか」

 この小説で問われているのは、正にこの点だと思います。

 とある少女に誘拐され、その時の出来事から作家として壁を突き抜ける青年の話、と今作をまとめることが可能でしょう。

 「少女不十分」が出した答え(或いは作家が口にする常の言葉)は、小説は飢えた子どもを救うことはできないけれど、物語の力というものは確かに存在し、別の何かを与えることができる、というものでした。

 「○○は飢えた子どもを云々」というのは、ありふれた批判です。小説に限らず、芸術や音楽など、文化といわれるものがその批判の対象にあげられることが多いですね。この言葉が口にされる時というのは、明らかにその○○は役に立たないと言いたくて、言われていることが多いので、ぼくはこの問いには答える必要がないとは思っています。この問い自体が物事を有意味と無意味の、二元論に変えてしまうもので、それは観測主によって変動せざるを得ない、人によって違うものだからです。

 そして何より、飢えた子どもを救えるのは食べ物だけだからです。食べ物以外のものは、何であれ飢えた子どもを救えません。

 では、飢えた子どもを救えないものたちは不要なのか。食べ物だけがこの世に必要なものなのでしょうか。これがさらなる問いを呼び込むことになります。つまり「人はパンのみに生きるのか?」です。

 人は食べ物だけがあれば、幸せでしょうか?

 当然そうではないですね。

 だから作家は嘯くのです。だから物語があるのだ、と。

 

 さて、今回見ていくのは「小説は飢えた子どもを救えるのか」という哲学的な問いを、エンターテインメントに仕上げた作家の技量について、です。

 

 まず、この作品は三十歳になった柿本という作家が、十年前を回想して、文章を書いているという体裁で語られています。文章自体は十年前と今を往復するような(十年前の自分を描写したかと思うと、現在の自分の反省や突っ込みが入り、また十年前の自分がなぜそのような行動をとったのか解説をする)形を取り、よく言えば饒舌、悪く言えば、無駄の多いと形容できる文章が続きます。

 初めに十年前の出来事をトラウマと語り、その時出会った少女がどこかおかしい所を持っている、と語る以上、物語を進めていくのには、その少女の描写をするのが一番手っ取り早く、小説が面白くなるのではないか、とぼくは考えますが、「少女不十分」では、そんなことよりもまず語り手である僕の説明ばかりが饒舌に語られます。

 

 これは読み進めていくと分かるのですが、そうすることによって少女に誘拐される二十歳の青年に説得力を与えるために、また、青年がどのように考えて、少女に付いていったのかを説明するのに必要な訳です。

 そして、それは作家志望の青年を「飢えた少女」に遭遇させるためにも必要だったのです。

 

 どういうことかというと、上の話に戻りますが「小説は飢えた子どもを救えるのか」と考えることはひどく簡単ですが、作家が、作家とはつまり命の危機に直面せず、小説という生存に直結しないものについて考えることのできる恵まれた存在が、食べ物にありつけないという、先進国、或いは後期資本主義社会に稀有な存在に、出会うことがどれほど難しいのか、という話になります。

 繰り返しますが、作家が飢えた子どもに出会うということは非常に困難です。まず「飢えた子ども云々」の端緒がサルトルの「飢えて死ぬ子どもに文学は有効か?」という1960年代の問いになりますが、まず小説を書けるということは文字の読み書きができることが前提です。この時点で、飢えて死ぬ子どもと小説を読み、書く人たちとの階級の違いを実感できることと思います。

 或いは、現在日本の子どもは七人に一人の割合で貧困に陥っているとも言われますが、彼らは不可視化されていて、現実に出会うことは難しいのではないでしょうか。昭和の時代ならいざ知らず、他人の家の事情を覗き見ることはタブー視されていますし、一目見ただけで子どもが貧困状態にあるなどとは判断しかねるでしょう。

 まとめると、作家と子供の文化的差異による階級の差、或いは現代における、自由社会の功罪の問題から、二人が出会うということはごく限りある可能性でしかないのです。

 

 実際「少女不十分」でも、主人公である柿本青年が少しでもやる気を出して、破たんした誘拐劇からの脱出を図っていたならば、彼は少女Uの秘密を知ることなく、二人の出会いはなかったことにされていたでしょう。

 

 話を進めます。柿本青年が監禁された後、物語は狂った少女の正体を暴くというサスペンスによって、駆動していきます。これは、物語が誰のためにあるのか、という話でもあるのでしょう。

 飢えた子どもが、もし飢えずに済むようになったら……。

 小説は飢えた子どもを救うことはできないけれど、でもその先のために存在している。飢えないようにと暮らしてきた子どもが、飢えの心配をしなくなった時、どう生きていくのか。物語はその先を子供に教えることができます。

きみの人生はとっくに滅茶苦茶だけど……、まあ、なにも、幸せになっちゃいけないってほどじゃあないんだよ。 

  という柿本青年の言葉にその全てが詰め込まれていると思うのですが、小説或いは物語というものは想像力です。今こことは違う場所、たくさんの可能性、あり得たかもしれない人生を体験できるのです。

 そして何より、少女がどうして狂ってしまったのか、なぜ狂ったように見えてしまうのか、を知ることはエンターテインメントとして面白い。これはテーマ的に語った以上のことよりも重要だと、最近のぼくは考えます。

 

 最期に、この誘拐事件を通じて、二人の人生というはほんの少しだけ上向きます。ただの作家志望であった柿本青年は念願の作家へと、そして、両親を失った少女Uは青年のお話によって、ある種の呪縛から解放される。

 それが語られるのは、番号44の最終章。そこでは文章が今までの過去を振り返る現在、という視点ではなく、まさに今起きていること、たった今十年前の出来事を書き終えた作家の一人称になることで、そのリアリティが担保されます。

 この物語においてハッピーエンドは既に起きたことではいけないのです。過去が今この瞬間に繋がるというカタルシスによって、物語が完結します。それは、やはり「小説は飢えた子どもを救えない」という結論なのでしょう。小説や物語は、それを受け取った瞬間に誰かを救うということはあり得ない。いつでも、わずかに遅れて、必要だったことが分かる。物語というのはそういうものではないでしょうか。

 

寝不足で心臓が痛い、五月。