感想「流転の地球」半径 6300㎞の息苦しさを愛すること、その表現。
この記事を読んでから、ちょっと注目していた映画「流転の地球」原題では「流浪地球」というらしく、中々印象が変わる、いいタイトルの付け方では
あらすじなどを見ると中国版「インターステラー」かな、と思わなくもないですが、そういう風に見ると、見落としの多い作品の気がします。
今回、テーマやストーリーについてはリンク先が詳しいので、ぼくはぼくなりに感じたことを。
記事の題にしましたが、半径6300㎞というのは地球の半径のだいたいの長さです。「流転の地球」では人類の危機を救うべく、地球丸ごとの人類移民計画が遂行されている訳ですが、この設定が中々ユニークな上に、作品の表現にもかなり影響を与えているのではないかな、と映画を見ていて思いました。
普通、フロンティアを求めて旅をするというのは、かなり自由なイメージがあるとお思うのですが、今作、地球が丸ごと移動するということもあってか、非常に窮屈さを感じます。それは主人公たちの生活空間にも影響を与えていて、地球に残された人類は地下生活を余儀なくされ、太陽から離れた影響で地表は凍り付いてしまっている。地下の息苦しさから地上に這い出ても、そこは激しい吹雪の舞う、極寒の世界であり、基本的に、この世界に見渡せる、広い空間というのは用意されていません。
さらに付け加えると、この映画の移動シーンはアニメによくあるような上手下手の移動、つまり画面内の左右へと向かって行くシーンが少ないように思います。主人公が操縦するトレーラーや、エレベーターのシーンなどを思い浮かべてもらえば、分かりやすいのですが、大抵は奥行きを使って、移動を描いています。或いは、俯瞰の視点から画面を上下に使ったもの。
主人公たちは、奥から手前に向かって移動しますが、前述した通り、舞台になる地球の表面は氷に覆われた、のっぺりした背景です。これでは立体感を演出するのは難しいだろうと思われるのに対し、映画内では徹底して、左右の移動を映さないように演出されています。
一方で、割と自由に右に左にと行ったり来たりするのは、宇宙ステーションに勤めている主人公の父親で、作中でも随一の権限、自由度を持っていたりします。
さて、繰り返しになりますが、奥行きを使った息苦しい演出は、恐らく地球に残されるという生きづらさ、また、木星へと引き寄せられた人類の絶望を表現するためのものだったのではないでしょうか。
物語の終盤でもあるように、これは「絶望と希望の入り混じった旅」なのです。彼らは人類の危機を救いはしましたが、まだ旅は始まったばかりです。いまだ2000年近い、旅程が残っており、4.2光年先の移住地でも人類は生き残れるのか。
彼らの危機を想像するだけで、不安は絶えません。
だからこそ、この映画で描かれたのは、地球に根差すという感覚だったのでしょう。決して自分が見ることの叶わない新天地、子どもの子どもの、そのまた子どもが見るであろう希望を、狭い地球の過酷な環境の中で、ここの他にはどこへも行けないという絶望を抱えながら、それでも次の世代に望みをつなぐ営みこそが、絶対に報われない彼らのもう一つの希望なのです。
「2001年宇宙の旅」と合わせて見ました、五月の朝