感想日記 夜明けの青

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感想「世界の終わりの庭で」著入間人間 絶望の中で触れる指先

 

世界の終わりの庭で (電撃文庫)

世界の終わりの庭で (電撃文庫)

 

 

「(中略)死ぬまでに間に合いそうもない。でもそれで動かなかったら、必ず死ぬからなにもしないなんて言っているのと一緒じゃないか」 

 枯れない花の研究を続ける彼女の叫びは、作中に大きく響く、一つのテーゼになっている。いつかはなくなる命、出来る訳ないという言い訳、それはやめるための理由にはならない。

 全五章、二千年の時を超えて紡がれる、出会いの物語。と、この作品を表することは可能かもしれない。

 例え、その出会いが望んだものでなく、偽りだったとしても。

 

 振り返れば、入間人間さんは叶わない恋、果たせない約束・再会を繰り返し描いてきたように思います。

 

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

少女妄想中。 (メディアワークス文庫)

 

 

 

 デビュー作の「みーまー」もその出会いの質からいって、みーくんとまーちゃんの二人は心を通じ合わせるという出会いを果たせたのかというと、 疑問ではあります。(互いを理解し合うこともなく、それでも隣にいることはできるという物語だったという読みも存在するかもしれません)

 入間作品においては、作劇上、巡り合えないという仕組みが非常に多いと感じます。一つは死であったり(たったひとつの、ねがい)、寿命(虹色エイリアン)。もう少し敷衍して、時間の隔たり(今作)。また、可能世界としての空間の断絶(昨日は彼女も恋してた、明日も彼女は恋をする)もそうです。

 そして、何より印象的なのは、深すぎる価値観の違い故の対話の不可能さ。変人と呼ばれるキャラクターが多いのも、入間作品の特徴の一つですが、その中でも際立って、彼ら変人が、自分の価値観を他者へ伝えようという努力が少ないことは印象的です。そのことで彼らは自らや他人の世界を守る訳ですが、それが却って、本当に触れ合いたいと思っている友人や恋人を遠ざける一因にもなっています。

 

 が、それらは本質的に関係することを邪魔しません。先にあげたように「必ず死ぬからなにもしないなんて」言い訳、無駄になることが分かっているからなにもしないという理屈は、入間作品には通用しないのです。作品内の彼ら、彼女らはそれが本物の出会いであるとか、必要とされているということではなく、他人が目の前にいるという理由だけで、他人とかかわることができます。

 四章の『神の手』では、正にそのような在り方で、彼女はティフォンの右手と関係するのです。或いは、それは三章『わたしの手』のさっちゃんとゆーちゃんの関係も同様かもしれません。

 例え、反応がなくとも、言葉が通じなくとも、静かに語りかけ、また勝手にしゃべりだすことで、そこには関係性が生まれます。外から見れば、互いが自由気ままに話したいことを話しているだけと受け取ることもできますが、会話の本質が一方的なキャッチボールであるのだから(言葉の性質上、意味が通じているからといって、会話が通じているとは限らない。林檎と言われ、赤いものを想像する人もいれば、青いものを想像する人がいるように、言葉に含まれているものは千差万別であり、そういった不完全なツールを使用している以上、会話は一方通行的でしかない)その関係性が間違ったものだとは、誰も言うことはできないはずです。

 

 ティフォンは、自らに接触してきた女性に出会いたいと願いますが、その願いは叶いません。一つには時間があまりにも隔たっているから。彼女の姿形を知る術すら失われています。記憶の奥底には、その残滓があることは示唆されますが、それを自力で思い出すことはほとんど不可能に近い。

 そして、そんな記憶の残滓から作り出された、彼女の複製品。博士の作り出した機械人形は、姿形をティフォンの記憶を基にして作り出したとはいえ、彼女本人の代替足り得ません。

 ここでは、彼女を「綺麗」と思う、ある種オリジンな感情と、その感情を思い起こさせるものが、彼女の模倣であるというアンビバレントが存在します。

彼女に応えたいという意思がこのわたしを生んだのだ。

  とまで言うティフォンの原初、彼女はすでに失われており、巡り合うことは叶わない。また、反応もない機械人形に指先を触れることに意味があると、ティフォン自身

、信じていないにもかかわらず、彼女は動きもしない機械人形へ花飾りを捧げます。

 「虚しい交流」と分かりながら、彼女と触れ合った原初の日々を思い出し、機械人形に向かってティフォンは思い出話を語り、遠い日の彼女を思います。決して見返りがある訳でもなく、会話がある訳でもなく、それでも語りかけてくれた彼女に自分自身を重ね、ティフォンは彼女に指先を触れる。

 

 

 さて、冒頭の台詞をもう一度、引用しようと思います。

 「(中略)死ぬまでに間に合いそうもない。でもそれで動かなかったら、必ず死ぬからなにもしないなんて言っているのと一緒じゃないか」

  上記した、作品の終盤に描かれたものは、叶わないから動かない、という地点を突き抜けて、一つの到達点に達したようにぼくは感じます。

 それはティフォンの望んでいたような出会いとは違うかもしれない、この出会いは一方的な思い込みなのかもしれない。そういった危うい可能性を秘めながら、この物語は見事に着地してみせました。

 この作品において、出会いは巡るものです。ティフォンのもたらす出会いは様々に人を変化させ、そのティフォン自身も彼女に出会ったからこそ、大きく生まれ変わった。そして、その出会いは一巡りして、彼女を模倣した機械人形まで辿り着く。

 こうして、彼女との出会いから始まったティフォンの物語は、一つの終わり、ハッピーエンドを迎えました。

 美しいと信じるだけの価値あるものに出会えること、それがどんなに幸運なことなのか、それは出会ったものにしか分からないのかもしれません。