感想「アイム・ノット・シリアルキラー」愛とはつまり、殺すこと
ネタバレ注意
この作品、どんなストーリーでしたか?
これ、ソシオパスvsエイリアンでしたね。(プレデターvsエイリアン的な意味で)
ところで、愛って何でしょう? 数々の文豪や思想家たちが愛について考えており、現代において、そこにこれ以上の注釈を加えるのは、何だか気恥ずかしく、とても難しいことに思いますが、それでも一つ言えることがあるなら、愛の本質とは選ぶことであり、愛する人以外の誰かを排除するということです。
今作の「アイム・ノット・シリアルキラー」は主人公のジョン(ソシオパス)と、クローリー(エイリアン)の愛する人をかけた戦いでした。また別の見方をすれば、ジョンが愛を手に入れるまでの物語です。
薄曇りの続く田舎町で、主人公であるジョンは家業が葬儀屋であることや、シリアルキラーに興味を持っているということで、非常に生きづらい人生を生きています。家族との仲は最悪で、父は家から離れ、クリスマスプレゼントもまともに送ってこない。同居している母とは、死や殺人についての趣味を良く思ってもらえず、口論が絶えません。
そんなジョンも普通とは違う自分を不安に思っているらしく、自らにルールを課したり、カウンセラーにわずかな本音を吐き出したりします。また、作中において、ソシオパスであるという診断(?)を受けたことも、その不安に拍車をかけます。彼は、他人が死ぬことも、また母親がその死の列に並ぶことも、全て同じように何も感じないと叫ぶのですが、この「みな同様に」ということが愛にとって、すごく重要だとぼくは考えます。
少し話が飛びますが、最近は「ssss.グリッドマン」を見ていて、特に最新9話で、新城アカネが誰にでも好かれるからこそ、誰にも選んでもらえないというジレンマに陥っていることが判明しましたが、そのことはサイコパスやソシオパスの共感性が低い、つまり誰でも同じであるということと、薄暗い底の方で繋がっていることだと思います。
つまり、何が言いたいかというと、誰もが同じだということは誰かを選ぶ必要がないということです。
ぼくらは誰かを好きになり、手助けをしたいと思う時、無意識にそれ以外の他人を排除しています。それこそが愛することの本質であり、そうでなければ、上記したように、愛することは不可能になり、誰かを選ぶ必要性がなくなってしまうからです。
作中において、これを体現するのがクローリーです。宇宙人である彼は、現在の妻であるケイと出会うことにより、愛するという感情を知りました。彼は妻と交わした「いつまでも一緒にいる」という約束を果たすため、他人を殺し、その臓器を奪って、寿命を先延ばしにしますが、それは全て愛する妻のためです。
クローリーにとって、妻以外の人間は恐らく何の価値にも値しないのでしょう。もしくは、妻のためなら殺してもいいと思える、その感情は、本当の意味で愛というものを体現していると思います。
現代ではベールに包まれ、意識することは少ないですが、今よりも命が軽かった時代、例えば大戦中のユダヤ人収容所などでは、他人の命を見捨てることによって、自分や愛する人が生き永らえるということは、日常の中にあったことだと思います。
ジョンが物語の最後、母親のためにクローリーを殺したのは、彼が世界に対して、誰もが同じではないという意識を持った現れでしょう。誰も変わらないという世界から、母親を選ぶ時、ジョンは誰もが一人ずつ違う、と気付くはずです。そして、その世界は差別と選別に満ちた世界であるはずです。
世界に産まれ落ちてくる以上、誰にも選ぶことが出来ない家族というものを、それでも愛するのだと選ぶことは、ぼくにとって最上の愛の形であるような気がします。なぜなのかは、あえて語りませんが。
十二月の長い夜