感想日記 夜明けの青

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感想「タナトスの子供たち 過剰適応の生態学」中島梓 異常な世界に対するぼくらのたたかい。

 

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

 

 中島梓さんのヤオイに関する評論。「ひとはなぜやおうのか?」を発端に、そのメカニズムや流れ、どこに萌えるのかといった点までを詳細に追ってくれます。

余談ですが、とてつもない才能を見ると、今の時代に生きていたらどうだっただろうか、というのを考えずにはいられません。ぼくらと一緒に生きていてくれていたら、どんなに勇気づけられたことか、と。

 

さて、仕切り直していきましょう。とはいえ、いつもの通り、直接には関係のない話ばかりだとは思いますが。

今回、非常に面白いなと思ったのは、「ひとはなぜやおうのか」という質問には、逆説的に「ひとはなぜやおってはいけないのか」という問いが秘められている、と指摘された点でした。さらに詳しく述べると、「なぜ同性なのか」「なぜA-SEXなのか」ということです。ぼくらの社会がなぜ同性愛を異常なものだとみなし、排除し、またそれをフィクションの世界で愛好する人間がいるのか、という疑問の発端には、現在の資本主義、民主主義に支えられた先進国の構造があるというのです。

それは市民であり、消費者であり、生産者である人間を異性愛により再生産することで、ぼくらの社会が成り立っているからであり、さらに、未来に向かって持続していくからこそ、ぼくら人類は進歩し、より良い存在へと変化していくという思想の存在が、同性愛やヤオイを異端とするわけです。

そこから、中島梓さんはもう一歩、踏み込みます。では、なぜそういった思想までもが再生産されるのか、といえば、全人類には生きる権利があるとする人権が、ぼくらの社会に根を張っているからです。それは生き延びたいという人の願望と混じり合い、人類は滅びてはならない、という風に形を変えます。

ですが、その人類には生きる権利があるとする考えは、身体が弱くても、障害を持っていたも、どんな人間であっても包摂し生かす一方で、むしろ生かしてしまうからこそ、排除の論理を強化しています。人間の生きる権利を保証するのならば、人間でないものとされた人の権利は当然のように剥奪されます。日本では相模原の事件が記憶に新しいはずです。

このように、ぼくらは社会に包摂されて、その中で競争させられるのです。その競争に敗れたものが排除され、淘汰されていくのですが、それに女性たちが抗う形で現れたのが、ヤオイだった、と中島梓さんはいうのです。

 

ここで確認したいのは、中島梓さんが闘争や革命、といってヤオイを評価している点です。この闘争と革命は、果たしてどのようなものなのか。恐らくですが、一言で言ってしまうと、それは社会の中で自分の居場所を作り出すことなのではないかな、と思います。本の中で、中島梓さんは何度も、ヤオイ上昇婚を目指し、美と恋、そして愛にのみ価値があるとされる競争社会から抜け出した、女性たちの楽園なのだ、といいます。これも説明すると長くなるのですが、簡単に言えば、少女とはいずれ妻になり、母になるものであり、そのための準備期間でしかない。女性は強い男性と結婚し、その子孫を残すことを唯一の使命とし、その過酷な使命の対価として、絶対の愛を授かるのだ、という価値観を非常にまじめに受け止めた少女、また元少女たちが、少年漫画的競争トーナメントの世界で戦ってばかりいて、決して愛を授けてくれない少年たちを、愛の価値観の中に同化させ、女は家庭を守るものというような保守的考えを崩さずに、反抗した例だとみているのです(かなり語弊があるかもしれません。本編でもおよそ三分の二ほどを使って説明してますので、ぜひ読んでみてください)。

ええと、もう一度要約しますと、女性は結婚してなんぼという考えがある。その考えを強く内面化した女性たちがいて、愛の神話に忠実であろうとする。しかし、その相手である少年(男性)たちは自分たちのたたかいを戦うので精一杯であるために、女性は抑圧の対価である愛を受け取れない。そこで、その愛の神話を守るためにフィクションの世界で少年たちを、愛の神話に乗っ取った形で戦わせ、その愛を確かめる、という形だと思います。

ここでぼくが強調しておきたかったのは、この革命が決して以前の価値観を破壊するものではないということです。ヤオイ少女たちは、むしろ旧弊な価値観を率先して、反復しているようにも見えますが、中島梓さんはこれを革命と呼び、非常に褒める。これが、先に述べたように、社会に居場所を探り当てるという革命なのかな、と思う訳です。そして、中島梓さんはこの革命の上にもう一つ層の違う考えを持っています。ここでいった革命は、異常な世界に正常なまま適応する、過剰適応の形です。つまり、これは戦術的な振る舞いであり、世界を変革する力を持たない弱者、一部の天才を除いた(現実でも一部の天才だけが世界を革命できる訳ではありませんが。)、大多数の人間が唯一取り得る行動として妥当性を持つ、程度の意味なのだろう、というのがぼくの理解です。

結局のところ、彼女もまたこの間違った世界を正さなければならない、そういう志向を示します。それこそがタナトス、死に根差したエネルギーです。これもまた上で書いたことですが、ぼくらの社会は生きることばかりに目を向けて、そのために歪みが産まれている。それを打破するためのもう一つの価値観として、このタナトスのエネルギーから生まれたヤオイが存在しているのです。

 

 

まだまだ語りたい気もしますが、繰り返しになってしまうのでこの辺りで止めておきます。

 

あたたかなハロウィンの夜