感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

自分語りの氾濫、あるいは反乱。

 どうも、この頃ツイッター周りで話題になっている

「アライさんなりきりアカウント」と

「夢見りあむ、ドナルドトランプ説」

 分かる人には分かるだろうし、その界隈に触れていないとまったく分からない話題だと思うけれど、何だかこの二つが現代の大きな潮流に乗っているような気がするような、しないような……。

 実際りあむについては、シンデレラガールズ総選挙と、現実の民主主義との関連が話されていて、がっつり現代の落とし穴にはまっている感じはある。

 詳しくはリンク先のホームページで

匿名自助グループとしての「アライさん」現象 なぜアライさんはTwitterで大量発生したのか? | ニコニコニュース

夢見りあむのふたつの未来

四年前から夢見りあむのオタクだった

 

 で、ここで語りたいのは、この二つが持っている革命性について。ここで言う革命というのは、場を支配するルールそのものを破壊しかねない、という危惧について。

 二つとも、大きな賛否の嵐に巻き込まれていることは恐らく確かだと思う。それはやはり、この現象が新しいからじゃないか、というのがぼくの考えである。

 じゃあ、その二つがそれぞれ何を破壊しているのか、という話。

 まず、「アライさん」は二次創作の在り方を。

 次に「夢見りあむの大躍進」はシンデレラガールズ、通称デレマスのアイドルとプロデューサーの関係を。

 

 けれど、ぼくはこの二つはまったく共通した現象から成っていると思っていて、それは何かというと、この現象を巻き起こしているのは「不特定多数の発信者たち」であり、彼らの代弁者として「アライさん」や「夢見りあむ」が前面に出ていること。言い換えれば、不特定多数の「中の人」が生まれようとしているのじゃないか。

 ここで付言しておきたいのは、りあむについては、上のリンクでも書かれていたように、今回の総選挙が一つの分水嶺であり、そこを超えてしまえば、恐らく今以上のパワーを発揮する機会は失われるのだろう、ということです。理由については後述。

 

 さて、ねとらぼにおける「アライさん」の考察では、スティグマの軽減とナラティブ・セラピーがキーワードとして語られていた。これはつまり「アライさん」の皮をかぶることで、「中の人」が自分の物語を語りやすくなった。そういったセラピーの共同体が発生してきている、と。

 これは恐らくぼくが語りたいことを「中の人」の視点から眺めた光景だと考えています。ぼくが考えるのは、むしろ二次創作としての「アライさん」であり、巷にあふれる「あんなのはアライさんではない。彼ら(なりきりアカウント)は「けものフレンズ」を冒涜している」という意見を突き抜けて、「中の人」の物語をビルドインされた、二次創作的「アライさん」と理解します。

 その説明には、恐らく今の「アライさん」界隈の発端となったであろう「ツライさん」についても語らなければならないと思います。

 「ツライさん」というのはこの記事を見てもらえれば、分かると思いますが、

現実社会ちほーはツライのだ…… 「けもフレ」アライさんがアルバイトする漫画が切なくて胸にくる - ねとらぼ

 ある種の現代パロディの二次創作であり、ここを経由して、今のなりきりアカウントまで至ったのではないか、という想像ができます。ここまでは広範に二次創作であるとして、けもフレファンに許容されていたのではないか、と考えるのですが、一方で、「やめるのだフェネックで学ぶシリーズ」というものもあり、こちらは原作、或いはアニメ版での二人の関係性「アライさんが暴走し、それをフェネックがとがめる」というスタイルを壊している、キャラ崩壊であると批判を受けている様子を確認できます。

 

 そして、見ておきたいのは「キャラ崩壊」という部分。なりきりアカウントはまったくのキャラ崩壊であり、その意味では二次創作ととらえることは不可能かもしれません。

 が、それとはまた別に、二次創作から原作へ入るルートがこの十年の内に整備されたようにも思っています。ぼく自身の体験から言うとアイドルマスターに触れたのはssからでしたし、その先駆的に咲ssがあり、少し古いですが、艦これは本編のゲームをプレイはしていないけれど、キャラは知っている、或いは○○(二次創作者)の赤城さん(例)は好きだ、ということはもう充分にあり得る訳です。

 ここでぼくが言いたいのは、現代において原典というものは絶対的なものではなくなっているということです。二次創作から、その二次創作(三次創作?)が生まれるのはあり得ることです。そして、それを○○じゃないと批判することは簡単です。しかし、二次創作そのものが既に○○(この場合、作者)じゃないを含んでいる以上、その批判というのはある種、無効化されているとも考えられます。

 

 では、「アライさんなりきりアカウント」に戻りましょう。

 先ほど書いたように、アライさんには「中の人」の物語がビルドインされ、多種多様な人生が二次創作的に生産(なりきりアカウントの本人たちからすれば、生産という言葉は不適切だとは思いますが、それを外部から観察する人間にはそのように見えます)されています。ぼくは様々な「アライさん」を一人のパーソナルな存在と認識すると同時に、総体としてそれらを統合する「全なるアライさん」をも想像します。

 この「全なるアライさん」は、それぞれ悩みを抱えたアライさんたちのキャラ崩壊を受け止め、それでも変容しないプリミティブな「アライさん」です。

 例を挙げるなら、アイドルマスターの「天海春香」でしょうか。ホメ春香から、劇場版アイマスのトップアイドル春香まで、確かにキャラ崩壊しているはずなのに、それを許容する、受け入れてしまう存在を想定しています。

 

 ここで今までを少しまとめておきましょう。

 ぼくが言いたいのは「なりきりアカウント」は一種の二次創作であるということ。そして、その際、参考にされるのは原典とされるアニメや漫画などのコンテンツではなく、むしろ二次創作する中の人たちの人生ということです。

 これはかなり革命的ではないですか?

 勿論、これは二次創作ではない、という批判は当然あるのですが、「中の人」の人生をも受け入れる、清濁併せ吞むというか、そういった何かをキャラクターが獲得しようとしている、そういう風にぼくは考えてみたいのです。

 

 そして、そのもう一方の話として「夢見りあむ」が存在しているのではないか、と。

 これまでアイドルは上記リンクで書かれているように、アイドルとプロデューサーの物語、その結実として総選挙があった。トップアイドルになるということは、そういうことです。彼女たちの欠点、失敗を二人三脚で乗り越えること、わずかながら成長した姿で、より大きな舞台を目指すというのが、シンデレラガールズで示された成功、輝き、喜びだった訳です。

 が、八年もの長い歳月とあまりにも多すぎるアイドルたち、そして、選挙という制度そのものの性質から、アイドルたちにも格差が生じました。

 この辺りはもっと複雑な要素が絡み合っていて、そこにプロデューサーたちの苦悩がある訳ですが、詳しくは語れないので語りません。

 

 注目したいのは、今まで彼女たちをトップアイドルへ押し上げてきたのは、アイドルとそのプロデューサーの物語でした。当然、それ以外の要素はありますが、トップアイドルになった子たちのプロデューサーは少なからず、そう考えるでしょう。長い雌伏の時、華々しい大逆転、念願の夢。

 

 それを覆すように現れたのが「夢見りあむ」でした。

 ほんの数か月前に登場したとは思えない勢いで、彼女は総選挙中間発表で総合三位に食い込みました。ぼくは確認していませんが、どうもこの件について、炎上ないしは賛否両論のようです。それもそうでしょう。登場して数か月の新人アイドルが、担当アイドルに楽曲あるいは声を付けてあげられる機会に、ぽっと現れたのだから。

 そこには彼女には物語がない、だから不適格だ、という批判があったようです、或いは前例として、そう批判されたアイドルがいた。(憶測ばかりで申し訳ないです。まあ、この記事自体、厳密性はないですから)

 さて、批判のあるなしはともかく、アイドルの物語というのは、プロデューサー(プレイヤー)の思い入れと、ほぼ同質と考えます。思い出ボムという単語があるように、アイドルと過ごした日々、ライブでの記憶、走り切ったイベントなどなど、物語といっても、そこにあるのはプロデューサーの感情なのでしょう。

 

 そして、「夢見りあむ」にはそれがない。(というと、本気で彼女をプロデュースっしたいと思っているプロデューサーさんがたに失礼でしょうが、今回の大躍進の理由と彼女が登場してからの時間を考慮し、あえて、ないと言い切ってしまいます)

 ですが、代わりに「夢見りあむ」に代入されている物語が存在します。

 それが、リンクに張った所謂「声なしP」たちの呪詛といっていいか、怨念といっていいか、ではないか。

 つまり、りあむには、他のアイドルとプロデューサーの思い(物語)が詰め込まれている。ぼくが上の方で、りあむの大躍進は今回限りだろう、と言ったのはその意味です。時間が経てば、りあむと彼女のプロデューサーたちの物語が編まれ、シンデレラガールズという制度に対する革命という側面は薄れて、彼女自身が普通のアイドルの一人になるだろうからです。

 なぜ「夢見りあむ」だったのか、については彼女のアイドルオタクというキャラクター性などに理由が見いだせると思いますが、逐一追っている訳ではないので、自重します。

 

 えー、「夢見りあむ」とシンデレラガールズについて、随分と放言しましたが、ぼくがここで確認しておきたいのはやはり、コンテンツをほっぽって、あふれ出した「中の人」たちの本音です。

 「アライさん」に比べるとその主張の仕方はひかえめではありますが、けれど、選挙結果として確かにある主張を伝えている。それは既にシンデレラガール、トップアイドルを決めるという目的を放棄して、何か別の所へひた走っているという感じがします。「アライさん」を通して、多様な人たちが自己主張を始めたように「りあむへの投票」へ傾いた人たちの動機というのは、本当に千差万別なのでしょう。上では報われないPの呪詛と簡単に言い切ってしまいましたが、そのまとめ方は恐らく間違っているはずです。

 

 「中の人」たちがあふれ出している、氾濫している。あるいは、反乱。

 自分語りというものが既存のルールを逸脱し、むしろ、ルールそのものの破壊へと向かっている。

 きっと、この記事をまとめようとすると、こう書くことができるでしょう。

 社会から弾き出された「アライさん」とアイドルマスターという世界で見捨てられ続けた「プロデューサー」が、それぞれ自分自身でいられなかったという傷によって、反乱を起こしたのだと。それは世界的に起こっている中間層の没落と同じなのだろう。

 

 しかし、そういう理解はしたくない。

 なぜ、このような形で自分語りが起こったのか、という点について、また、なぜ今自分語りなのか、という意味も考えていきたい。

 

 

 最期に一つ「アライさん」たちは衆目には晒されたくない、と語っていましたが、ぼくは彼らを二次創作と位置づけ、コンテンツと見做し、今記事を書きました。個別の「アライさん」たちへの言及はありませんが、これは一つ禁忌を破ったことと考えています。