感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「第三の男」観覧車でのハリーとの問答

 

 何故かはわからないけれど、ふと二三日前に見たいなと思ったので観た。

 あらすじ(ネタバレあり)

 舞台は戦後の分割統治下のウィーン。友人のハリーに誘われたウィーンにやってきた、無一文の無名作家ホリー・マーティンスは街について早々、ハリーが交通事故で亡くなったことを知らされる。事故当時、ハリーの側には友人たちがいて、事故に遭った彼の介抱をしたというのだが、彼らの証言には食い違いがあり、さらには存在しないはずの三人目の男がその場にいたのだという。

 ホリーは友人の死の真相を調べるべく、ウィーンの街を駆け回るのだが、国際警察はハリーを闇商人と疑っているため非協力的で、ハリーの友人たちも何かを隠している様子だった。そんな中、ホリーはハリーの元恋人である女優のアンナと親しくなる。だが、彼女はパスポートを偽造したチェコ人であった。国際警察に目をつけられた彼女の立場は、次第に怪しいものとなっていく。

 一方、ハリーの死を調べていくうち、証人の一人であるアパートの門番が何者かに殺されてしまう。ホリーは殺人犯と疑われ、助けを求めるため、国際警察のキャロウェイ少佐に助けを求める。少佐は、ホリーを諦めさせるため、ハリーが行っていた悪事について話す。彼は軍病院から盗み出したペニシリンを薄めた、効果のない、むしろ悪影響を及ぼす薬を、闇で売りさばいていたのだ。ホリーは真実を知り、翌日の便でウィーンを離れる決意をする。

 ホリーはアンナに最後の別れを告げ、部屋を出る。物陰に隠れた人影を見て、ホリーは尾行している人物をなじる。眠っていた住人が窓を開け、ホリーに怒鳴りつけた瞬間、窓から差した光が人影を照らす。そこには、死んだはずのハリーが立っていた。

 ハリーは、ホリーを闇商売に誘う。また連絡をくれ、と帰っていくハリー。ホリーは少佐にそのことを伝えるが、おとり捜査に協力することを拒む。同じころ、アンナの強制送還が執行されようとしていた。ホリーはアンナを救うため、おとり捜査に協力する。ハリーは下水道に追い詰められ、追ってきたホリーに撃たれて死ぬ。ハリーとホリー、そして、ホリーとアンナもまた道を違えて、それぞれの家に帰っていく。

 

+++

 

 ホリーとハリーが観覧車で再開したシーン、ハリーが下に見える人間を指して、

「あの点が消えたから何だというんだ。あれ一つが、二万ポンドになるとしたら?」

 というようなことをいう場面に、戦後を生きた人間の匂いがするような気がした。映画公開は1950年、第二次世界大戦から五年しかたっていない。元より、舞台は分割統治下のウィーンであるし、当然ホリーたちは銃を取り、戦地に向かっただろう。彼ら二人は二十年来の友人だったと語られ、一方で、ホリーは闇市に劣悪な商品を流すハリーの一面を知って、絶句する。ハリーは元々、品行方正だったわけではないが、必ずしも悪辣だったわけではない。路地で不意に照らされて、ホリーに姿を見られてしまったシーンでも、ハリーの茶目っ気が分かる。何とも言えない憎めない表情で、ホリーに笑ってみせるのだ。

 上記の台詞を言わせたのは、やはり、ハリーの戦場での経験ではないかと思う。無意味に死んでいく命と、それがいっそ金になる世界ならば、どちらがましか。一方で、この映画から七十年以上が経ち、もはやハリーの台詞も陳腐化するほど聞き飽きた悪役の定型文となりはてた感があるが、それでも、色褪せないのは、時代背景がキャラクターの背後にぴったりと張り付いているからではないかと思う。

 

 そして、それに対となる台詞もこの映画には用意されている。アンナが駅でホリーに話す場面だ。

「私たちがハリーに何をしてあげたの?」

 彼の悪事をなじるのは簡単だ、というアンナの台詞も、惚れた女の愚かな弁護ともとれるが、逆に言えば、悪事に手を染めた友人に救いの手を差し伸べることはできないのか、という問いでもあるはずだ。

 映画のラスト、ホリーはその答えを出す。ハリーもまたどこかで理解していたのだろう。一人殺して二万ポンドになる世界で、無数の病人を生み出す人間を殺せば、何人が救われるというのだろう。ホリーは友の悪事を終わらせる。彼の命と引き換えに。

 

 余談だが、レビューを漁っていたら、ハリーがホリーを誘っておいて、事故を起こしていて、意味が分からないという趣旨のブログを二つほど見かけた。まず前提として、交通網や通信網が現代ほど発達していないので、ハリーが誘いの手紙(なのか電報やそのほかのものかはわからないが)を出した時期と、ホリーがウィーンに着くまでに、時間差があるということ。その間に、国際警察の手が忍び寄ってきたため、警察から逃れるために事故の狂言を起こしたということは充分に考えられる。

 次に、ホリーを呼び出した理由について。ホリー自身が語っている中に、医療問題の原稿を依頼してきた、という内容がある。恐らくハリーは、ホリーを自らの商売に引き入れようとしたのではないか。実際、作中でもハリーは彼を勧誘する。信頼できる友人がほしかった、というのもハリーの口から語られていることだ。イギリス統治領からソ連統治領に河岸を変えていることからも、もしかするとハリーはクルツたちを切り捨てて、ホリーと二人でソ連での新しい事業を始めるつもりだったのかもしれない。

感想「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版 幸せの背景は不幸」著入間人間 どうして大切なのか分からないし、分かりたくないけれど大切だと思ってしまうもの、つまりは愛について

 

 internet explorerを立ち上げるだけでファンが唸りだすデスクトップパソコンの画面には、googleのトップページ(yahoo! japonからわざわざ検索して開いている)が開かれていて、検索窓に s の文字を入力すると、予測変換でシリアルキラーと出てくる。その下にはサイコパスサイコパス診断と続き、ぼくがこれから見ようとしているのはwikipedia北九州監禁殺人事件の記事で、それがぼくの罹患した中二病という病気の症状だった。

 

 嘘だけど。

 

 そう、これから語ろうとしているのは昔話じゃない。今の話をしようとしている。つい数日前に発売された、みーまー完全版の話だ。加筆修正を加えられ、書下ろし掌編もついた、嘘つきみーくんと壊れたまーちゃんの完全版の話。それを語るということは必然的に愛についても騙るということで、つまりぼくは、みーまーに書かれていた話が、愛について語っていたのだとようやく気付いたわけだ。それはずっとずっとそうだったのかもしれないけれど、ぼくはいつでも遅すぎる。この記事だって、本当は先週の内に出しておかなきゃいけなかったはずなんだ。だけど、そんなことはどうでもよくって、きっと誰にも語られてないこの話をぼくが語るということだけが重要で、他は些末事。

 これからの話は、もちろんネタバレありだから、そこんとこ、よろしく。

 

 

 

 

 あらすじ(結末部分まで)

 八年前、平和な田舎町で起こった誘拐事件の被害者である僕と、まーちゃん。事件の解決とともに疎遠になった二人だったけれど、ある日、街にふたたび事件が起こる。通り魔連続殺人事件と誘拐事件。八年前を思い出させる事件に街は騒然。僕はまーちゃんのもとへ姿を現し、正体を明かす。みーくん、それが僕の名前だった。みーくんはまーちゃんの絶対の味方で、いつでも助けてくれるし、嘘はつかない。まーちゃんの家には、誘拐された幼い兄妹がいて、僕はまーちゃんを助けるために、奔走することになる。

 まーちゃんを助けるため(嘘だけど)に始めた同棲生活は順風満帆、まーちゃんとのらぶらぶ生活もABCのいいところまで進んで、誘拐事件の被害者、池田兄妹との溝も埋まって、上手くやっていけそうと思った矢先、まーちゃんは夜中に暴れ出す。過去に受けた傷が癒えるはずもなく、まーちゃんを苛む。僕はそんなまーちゃんを病院へ連れていくけれど、自分を守るために視野を閉ざしたまーちゃんにとって、治療とは何か、幸せとは何か分からないままで、だけど、僕とまーちゃんの間はらぶで満たされているから大丈夫(嘘だけど)。そんなこんなの間にも通り魔殺人の被害者は増え、僕とまーちゃんは殺人事件の容疑者になっているのだった。

 上社奈月さんは、凄腕の女刑事だ。僕と奈月さんはまーちゃんに隠れて、地元のデパートでこっそりデートを企んだのだけれど、それがまーちゃんにばれて、僕はデパートの屋上から飛び降りる。「死んじゃえ」そう、まーちゃんが言ったから。けど、僕は生きていた。まーちゃんはそんなことがあったあとでも変わらないし、家に帰ると池田兄妹がすり寄ってきて、いくら感情に疎い僕でも少しほだされてしまう。僕は計画の最終段階を進めることを決める。こんなことがあっても、僕はまーちゃんのことが好きなんだってさ。

 僕はこの誘拐事件を終わらせることにした。今回の誘拐事件は、もともと家出癖のあった池田兄妹を、どういう経緯からか、まーちゃんが保護したことから始まったものだった。だから、僕は池田兄妹を家に帰すことに決めた。大事なのは、まーちゃんが罪に問われないこと。僕はそのための策もうっていた。街では、まだ通り魔殺人が続いている。

 八年前に起きた誘拐事件、攫われたのはみーくんと呼ばれる男の子と、まーちゃんと呼ばれる女の子だった。彼らを監禁していた地下室には、誘拐犯のこどもの男の子もいて、だから地下室にいるこどもは全部で三人だった。そこで行われた残虐な行為のせいで、みーくんもまーちゃんも少しずつ壊れていって、誘拐犯のこどもはそれを全部みていて、全部覚えていた。みーくんとまーちゃんは都合のいいところだけ覚えていて、あとは忘れてしまったみたいだった。あれだけ大切にしていたお互いのことさえ。

 帰路につこうとしていた池田兄妹をみーくんが襲う。追いかけて、追い詰めて、殺そうとしたとき、みーくんの脳裏に懐かしいものが浮かんで、一瞬、躊躇する。何かを思い出せそうな感覚。だけど、そこに邪魔が入る。青年が割り込んできて、みーくんの邪魔をする。彼もまたみーくんのことを知っているみたいだった。何かを追いかけ続けてきたみーくんは、彼が自分の何を知っているのか聞き出そうとして、失敗する。みーくんは殺そうとした彼に返り討ちにあってしまう。

 僕は倒れたみーくんに言い訳をする。「何で文系の僕が殺人鬼と戦闘なんかしなくちゃいけないんだ」満身創痍の二人は、神社の境内に倒れ伏す。

 死にきれず、病院に運ばれた僕はまーちゃん、御園マユと出会ったときのことを夢に見ていた。その時初めて、誰かに求められたこととか。どうして彼女を好きになったのか、とか。

 まだ死ねない理由、とか。

 

 

 

 「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版」に登場する主要人物は三人、みーくん、まーちゃん、そして、ぼく。彼らには幼い頃誘拐事件にかかわってしまった過去があり、それぞれの歪みや暗い影となって、現在の人格などに作用している。特に、その異常さが分かりやすいのがまーちゃんこと御園マユであり、彼女は事件当時から精神的に成長することがなく、また、自らをまーちゃんと呼んだ人物を、みーくんと認識する癖がある。彼女にとって重要なことは、みーくんが自分の側にいるかどうかであり、たとえそれが周囲から見て、どれほど不幸せなものに見えたとしても、マユ本人にとっては幸せに他ならない。彼女にとっては、みーくんか、みーくんでないかだけが重要であとは些事である。後述するが、その状況そのものを不幸せとみることもできるが、マユのそういった異常な認識を正すことが、彼女を幸せに導くかというと、それは疑問である。

 

 一方で、みーくんの場合、地下室の記憶を忘れた彼は、その名残を追いかけ、連続殺人に手を染める。地下室で起こった凄惨な出来事、血と暗闇と暴力、それらの瞬間に垣間見えるものが自分にとってどれほど大事なものなのか、計りかねるがゆえに、彼はそれを追い求めることをやめられない。

 

 そして、語り手である僕は一見して、異常性を持ち合わせていないようにも見える。虚言癖の気があるけれど、軽口やジョークの類ともとれるし、人並みの感情を持ち合わせていないなどと嘯くけれど、言動からは人間味を感じるし、少なくとも、そう見えるように取り繕うことができるという点で、まーちゃんの異常性とは一線を画している。そんな彼の歪みは、優先順位のつけ方にある。地下室での経験から、死や血、暴力などの一般的に忌避されるものへの抵抗感が薄く、また、まーちゃんを最優先にするという行動理念に基づいて行動している(ように振る舞う)。

 

 この三人に共通しているのは、彼ら自身が各々、大切だと思っているものに対して、それがどうして大切なのか、自覚できないというところだ。そして、その大切に思っているものが、大切にするに値しないもの――むしろ、積極的に自分から切り離した方がよいもの――として位置づけられている。

 まーちゃんにとってのみーくんとは仲良しの男の子の名前であったけれど、誘拐事件を通して、みーくんは自分を守る殻となった。耐えがたい現実から逃れるための逃避先であり、自分を助けてくれるかけがえのないもの。だが、それがなぜ大切なのか、というと、誘拐犯に地下室に監禁され、耐えがたい苦痛を与えられたから。苦痛から逃れるために必要だったから、まーちゃんにとってみーくんは大切なものとなった。

 

 繰り返しになるがここに、大切なものが、大切にするに値しないものであるという二律背反が成り立つ。そして、それこそが、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん 完全版」が描きだした新しいみーまー像ではないか、とぼくは考える。

 もう少し詳細に見ていこう。まーちゃんの幸福は確固としたものとして存在しているわけではなく、あらすじで述べたように過去のフラッシュバックに苛まれるなど、みーくんという幻想を突き破って、幸福にだけフォーカスしたまーちゃんの視点にも現実が垣間見える。あくまでみーくんに焦点を合わせることで保っていたまーちゃんの幸福も、完璧ではない。だからといって、フラッシュバックの原因である過去のトラウマを取り除こうとすると、まーちゃんはより大きな不幸を直視せざるを得なくなる。「治療」するために、みーくんという色眼鏡を外し、みーくんという幸福から視野を広げれば、その背景となっている不幸が否応なしに視界に入り込んでくる。この場合のまーちゃんの不幸とは、自分の両親を自らの手で殺したことだ。結果として、過去のトラウマと向き合うために、さらなるトラウマを生み出すことになる。それは上述した二律背反と比喩の関係にあり、両親を殺した記憶は「治療」することの第一歩でありながら、思い出さずに済むのならそのままにしておきたい過去でもある。

 

 同じことはみーくんにも言える。夜な夜な徘徊し、殺人を繰り返すみーくんは視界をよぎる記憶の残滓のようなものを探している。あるいは、記憶の残滓に突き動かされ、殺人を繰り返している。ここでも、大切に思っているものが、大切にするに値しないものであるという二律背反が成り立つ。殺人をしてまで手に入れたいものであるのか、という問いは本文にも書きこまれている。それでも、みーくんは求めることを選び、人を殺す。

 

 そして、僕。語り手である彼の顛末は本文に書かれている。彼の行動理念を作り上げたのは、前述の二人と同様に、八年前の誘拐事件である。ただ、二人と異なるのは、彼が誘拐事件の被害者ではなく、誘拐事件の犯人の息子であるという当事者性にある。ここでいう当事者性とは、四章の冒頭にあるように彼の行動次第で誘拐事件の動向が左右される状況にあったということ。彼が事件の顛末に責任を感じていることは、嘘をつくという行為への彼の認識を語る場面でも表れている。

嘘をつく、ということを自覚的に行うためには正常な思考が必要だ。

(中略)

僕だけが正気を保ちながら、この地下室の始まりと終わりを、見届け続けた。
一秒ずつ、ゆっくり、決して時間が飛ぶことなく。
あますことない、すべてを。

P270

 しかし、彼のこの責任感は事件を通報し、未然に防げなかったことにではなく、事件を通して、かけがえのないものを手に入れてしまった点にある。引用部の前後は、まさにそのことについて書かれており、僕はまーちゃんとの嘘の触れ合いを通じて、これまでの人生で得られなかったものを手に入れる。彼にとってもまた、大切なものが大切にする価値のないもの、となっている。間違った過程で手に入れた結果。これは池田兄妹の顛末とも響き合ってくる。どうあっても正しくはなかった解決方法とそれを遂行しきれなかった僕の甘さという間違いだらけの道程を経て、本書の結論部は導き出されるわけだが。

 

 閑話休題

 ここまで見てきたように、彼ら三人の求めるものは、他人に認められるようなものでは決してない。手に入れることで不幸になるもの、手を伸ばすことで他人を損なうもの、他人を損なって手に入れたもの。彼ら自身が大切に思うものは、すでに価値が失われているものである。それは世間一般から見てという以上に、彼らの内面から自壊は始まっている。価値あるものだと自分自身が認められないはずなのに、それを大切に思ってしまう。そういった自己矛盾の中に、彼らはいる。だが、その矛盾に気付くことも彼らには不可能だ。

 タイトルの副題になっている「幸せの背景は不幸」は、そのように解釈することが可能だと思う。そして、それが本書が全編を通して、描こうとしているものではないか、とも。

 

 これを前提として、もう一度、本書を旧作と比較しながら見ていこうと思う。

 語り手の僕はみーくんという名前を利用して、御園マユに近付き、彼女が引き起こしてしまった誘拐事件の解決を試みる。同棲生活を続けていくうちに、マユが過去のトラウマにいまだ囚われていることが明らかになっていき、その鏡写しのように、僕の過去も明らかになっていく。巷間では通り魔殺人事件が街を賑わせており、その真犯人は、マユや僕と同じ誘拐事件の被害者、菅原道真である。

 

 このメインプロットで旧作から大きく変更が加えられているのが、みーくんこと菅原道真の殺人衝動まわりの設定である。それに付随して、マユが池田兄妹を誘拐した理由についても想像の余地が生まれている。

 旧作において、みーくんの殺人は無意識で行われており、また殺人を行う動機は、同じような衝動を持つ人間を探すというものだった。完全版では、記憶の名残を探し求めて殺人を繰り返すという設定に変更されており、みーくんの動機が過去の事件との関連を深めることで、人物像がくっきりとした形で押し出されているように思われる。そして『八人目』での記述のとおり、僕との対比が意識されているのが分かる。人間を怖いと思うからこそすごいと思うみーくんと、人間が怖いけれど好きになりたい僕。八年前の事件によりフォーカスを当てる形で、完全版は書かれている。

 また、池田兄妹を追い詰めた場面で、幼い男女の組み合わせに何か感じ入るものがように書かれている点は、まーちゃんが池田兄妹を誘拐した動機に繋がっているのではないか、と想像させるものになっている(逆に、旧作にあった池田兄妹へのマユの言及が、完全版ではなくなっている)。

 

 もう一つ重要な変更点は、みーくんとまーちゃんが壊れてしまった経緯だ。旧作では、「芸」を覚えさせられたみーくんがまーちゃんを標的にしたため、まーちゃんは目の前の人物をみーくんと認めることをやめてしまった、と説明される。一方で、完全版では、地下室での生活の中で徐々にまーちゃんが平衡感覚を失っていき、それに伴う形でみーくんもまた壊れていく。みーくんが加害者であるという設定がオミットされた影響で、語り手の僕が二人の関係に入り込んでいく異質感が増している。そしてそれが僕の意思であったと書き加えられたことで、なぜ誘拐事件に介入しようとしたのか、の動機が補強されている。

 

 個人的にこの二点の変更が、作品の雰囲気をがらりと変えるものになっていると感じる。完全版のまーちゃんを取り巻く環境であるところの僕・みーくんが、強い自分の意思を持って行動しており、旧作の「壊されてしまった」という諦念は薄まり、「壊されてしまったあと」の物語へ推移しているように感じられる。つまり、言い換えると、絶望が薄まっているとぼくには感じられた。これは一般論だけれど、希望を描く物語がよい物語とは限らない。絶望の中に沈んで、そのどうしようもなさに浸ることでしか得られない希望というのはある。絶望が希望に転化する瞬間は、ある。

 

 

 

 ――ずいぶん長い言い訳でしたね。それで、どう思っているんですか?

 

 長い夢でも見ているようでしたよ、ええ、覚めなきゃいいなと思っているうちは、それが夢だと自分でも気付いているわけで。夢を夢で終わらせない、なんて、ぼくの垂れ流しても大丈夫な願望なんて、ワイフが許してくれるはずもありませんから。(嘘だけど)

 

 ――つまり、××さんにはハーレム願望がある、と。

 

 いえいえ、全人類に、ですよ。

 

 ――だうと、私にはありませんので。

 

 Gさん、嘘はいけません、嘘だけは。

 

 ――やはり聡明な××さんには隠しておけませんか。そうです、私は常々みーさんとマユちゃんをはべらせて、病院のベッドですやすやと眠りたいと思っていました。

 

 なんだか、聞いたことのあるシチュエーションですね。

 

 ――おお、完璧な発音。私の上司は、すちゅえーちょんと彼のことを読んでいます。

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

 こんな駄弁りがみーまーの本質だと思っていた時期が自分にもありました。自分で書いてるからこれが上手いのか下手なのか分からないけれど、それでも、ぱぱぱっとキーボードを叩いて出力できるくらいには、自分に根差しているものなわけで、「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」は確実にぼくを形作ったものの一つということです。

 完全版を読み終わっての第一印象は、加筆修正ではなくて、完全リライトの方を出してくれればよかったのに、と思いました。常々、入間人間氏が述べていたように、みーまーが読みたいのならみーまーを読めばいい。電波女と青春男でSF版を出したように、みーまー嘘だけど版とでも題打って、今の入間人間氏が書く、全編書下ろしの新しいみーまーでも書いてくれたらよかったのに。

 ひどくつまらないことを言えば、時代背景も含めての作品だし作品受容でもあるので、あの時代を離れたみーまーがこれじゃないとなるのは分かりきったことだった。ゼロ年代後半の絶望とももどかしさともいえない空気感が、作品にも作品を読むぼくらにもまとわりついていて、それが作品の評価を決めていたところもある。不謹慎なことを言うようだけど、猫の惨死体が発見されたニュース(それに関連して、学校を襲った高校生)を見て、生まれてくるのが十年(十五年?)遅かったね、と思った。十年前ならば、彼が抱えていたほの暗さを共有できる場はあったはずで、結果、彼の行動が変わらなかったとしても、彼に共感する人たちはいたはずで。なんて益体のないことを考えていた。許されるはずのないことをしてみたい。他人に迷惑をかけず、それが可能なのはフィクションの中だけだ。嘘だけど。

 まーちゃんになら殺されてもいいかなという僕の自殺願望は、当時みーまーを読んでいたぼくも感じていたものだったし、あるいは、生き物の命を奪ってみたい(野良猫をつかまえて、やわらかいおなかに刃物を突き立てる感覚は、きっと恐らくは不愉快で楽しくもなければ、心地よくもないはずだけれど、それでも「経験」してみたい)という願望を、みーまーを読みながら恋に恋する乙女のように夢想したのも、まぎれもない事実だということをここに書いておく。

 

 この記事の前半部、テーマに沿った読み方のようなものをしたけれど、そんなことは作品読解でもなんでもなく、むしろ言ってしまえば、テーマなどというものは作品に対して邪魔以外の何物でもなく、本当に大事なのは、ぼくが先にあげたような人間の持つ願望のかたちを、作品を通して実現させたり、夢見させたりすることだったりする。この記事を書くのに忙しくて、まだ旧作を読み返せていないけれど、記事を書くにあたって文章を探していると、かなり「無駄」がそぎ落とされているのだな、と改めて思う。その「無駄」にこそ、みーまーらしさが詰まってたようにも思うし、逆に、それをそぎ落としたからこそ完全版は、みーくん、まーちゃん、僕の三人の物語として生まれ変わったとも思える。

 こんなことを言うのは本当に不本意なのだけれど、ぼくが好きなのは、やっぱり旧作の方だった。その時の作者にしか書けないものが、そこにはあるから。だからこそ、ぼくは完全リライトが読みたかった。今この時にしか書けないもので、今のみーまーを書いてほしかったから。もし、売り上げが好調で、もし、完全版の出版が続いていくのなら、その時こそは今の入間人間氏にしか書けない、今のみーまーを書いてほしい、とぼくは思う。ぼくがこうして文章を書いているのは、ほかならぬ、あの時の「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」を読んだからで、そうでなければ小説を書きたいなんて夢にも思わなかっただろうから。

 

春、四月馬鹿の朝に

【個人用メモ】最近見たもの

小説が書けないアイツに書かせる方法 著アサウラ

 以下、ネタバレあらすじ。

 勃起不全の男子高校生が実体験を小説にしたところ、フランス書院的な出版社の新人賞を受賞、その作品が話題となるものの、勃起不全は改善せず、次回作にも着手できずにいた。そこに、不審な女子大生がやってきて、小説を書けと脅してくる。書かなければ、正体をばらすと言って。彼女が見せたプロットは触手に犯された乙女が純愛と快楽の間で揺れ動くというものだった。そのプロットに勃起不全改善の兆しを感じた主人公は、脅しに屈する振りをしつつ、その原因を調べることに。

 だが、原因の分からないまま、書き続けた小説はクライマックスで急ブレーキがかかる。プロットを監修しているヒロインのダメ出しが止まらないのだった。不思議に思った主人公はヒロインについて調べていくうちに、彼女が同じ新人賞の大賞受賞者であったことを知る。と同時に、ヒロインの小説を読んだ主人公の勃起不全が解消する。今度は主人公がヒロインを脅し、小説を書かせることに。

 主人公とヒロインは二人三脚で小説を書き進めていく。だが、小説の出来を左右するクライマックス、快楽の象徴である触手と対を成す、婚約者からのキスがどうしても書けない。経験こそが創作の糧である、というヒロインにたいし、主人公は自らの身を投げ出すことを決意する。二人はキスをし、小説は完成する。直後、消えたヒロインを追い、主人公は軽井沢へ。二人は書店へ行き、出版された小説が売れるのを見る。主人公はうれしそうなヒロインの横顔を眺め、そっとその場から立ち去った。

 それからしばらくの間をおいて、主人公は相変わらず、小説が書けずに悩んでいた。そこでヒロインがやってきて、脅迫の続きを述べる。

「君は小説を書くの。この私、一之瀬琥珀のために、小説を……」

 

 創作についての創作、それに絡めたヒロインとの恋愛模様の扱いが上手いという感想。フーディにパーカーとルビが振ってあったのが印象に残った。面白く読んだのだけど、うまく吸収できない。どこが面白かったか、聞かれるとよく分からない。なんか、全編にわたって期待感があったような気がする。それと、小説が積み上げてきたものがどういう反応で受け入れられるのか、をしっかり作中で書かなきゃいけないんだな、ということを思った。特に、ヒロインが書いた小説がどう受容されたか、ということをしっかり書き切っている。それを読むことで、読者は安心して、ハッピーエンドだと確信するのかな?

 

嘘つき姫 著坂崎かおる

あーちゃんはかあいそうでかあいい 著坂崎かおる

 二つまとめて坂崎かおる論的なの書きたい。

 1996年の羽生善治に対する全プロ棋士の気分であり、現時点での藤井聡太に対する渡辺明のような気分。ネット上の公募賞を総なめしつつある坂崎かおる氏について、まじめに分析しないといけないでしょ、という。

 

 

エーミールと探偵たち 著エーリヒ・ケストナー

 ノイシュタットに住む少年、エーミールは母一人子一人で貧しいながらも幸福に暮らしている。ある日、ベルリンの親戚の元へ遊びに行くことになったエーミールは、支払いの滞っていた仕送りを持っていくことになる。母が大変な思いをして稼いだお金を、きちんと送り届けることを約束したエーミールだったが、ちょっとの居眠りの隙に列車に乗り合わせた山高帽の男に、お金を入れた封筒を盗まれてしまう。

 彼を追いかけ、ベルリンの街を右往左往しているうち、エーミールは地元の餓鬼大将であるグスタフに出会う。事の次第を説明すると、グスタフはお金を取り返すのを手伝ってくれることに。また彼の案内で、地元の少年たちが集まり、作戦会議を開く。連絡係、見張り、待機メンバーなど役割を割り振られた少年たちは、山高帽の男を追いかける。そうこうしているうちに噂を聞きつけた少年たちが集まってきて、追い回された男はついに銀行へ入って、盗んだお金を両替しようと試みる。

 そこへ、エーミールたちが突撃し、すんでのところでそのお金がエーミールのものであると証明することに成功し、ぼろを出した男は逮捕される。警察署で事情を説明していると、記者がやってきて、エーミールたちに取材を始めた。なんと、山高帽の男は賞金首の銀行強盗だったのだ。新聞の一面を飾ったエーミールは、手に入れた賞金で母親をベルリンへ招待する。家族が揃い、口々に今回の事件について、意見を述べる。そんななか、おばあちゃんが一言。

「お金は郵便為替で送ること」

 

 「飛ぶ教室」があまりに面白かったので、ケストナーを追いかけてみることにした。「ふたりのロッテ」が次。あとは図書館に行って、評論とかを借りてこようかな。

 作品については、やっぱり少年が集まって組織を運営するあたりがすごく面白い。飛ぶ教室でも他校との戦争の場面とかめちゃくちゃ面白かったし。キャラが立っているので、複数人モブがでてきても混乱せずに読めるし、立案された作戦が理にかなっているように見えるので、納得感がある。あと、小説が書けないアイツに書かせる方法のところでも書いたけれど、事の顛末が作中でどのように受け止められたのかを書くのって、すごく重要なことなんだなと思った。特に、この作品は児童文学として書かれているから、おそらくは物語の快楽に忠実なはずで、読者を盛り上げるには登場人物が報われるべきなんだろうな。

最近見たもの

レゴバットマン

 バットマンとジョーカーの痴話げんかという前評判通り。レゴムービーの設定も踏襲しつつ、いい感じに仕上がっている。

 

ヘルドッグス

 岡田准一がかっこいい映画。多分ハリウッドのマフィア映画みたいなものを作りたいんだろうなという感じ。現実の日本に似ているけれど、似て非なるもの。まったくの別世界で映画の中だけの世界。話は、いま何が目的だったっけ?みたいな瞬間が何度かあったけど、べつにそれとは関係なしに楽しく観れた。

 

IWGP

 小学校に上がる前くらいに、姉がハマってて、放送時間とか遅いし借りてきたビデオも小さいからって見せてくれなかったので、見た記憶だけはあるのに、何も覚えてないという不思議な感覚。ありますんとか、川崎麻世とか、ぶっ飛ぶからとか、フレーズ単位では覚えてるものがあった。

 何か懐かしいって感じるのかなと思ったけど、そんなことはなくて、あの時代の風景って自分の世界観の根底にあるのかな見たいなことを思った。

 

男はつらいよ

 見たことなかったので見てみた。これも懐かしいとか思うのかなと思ったけど、そんなことはまったくなかったぜ。年代が離れすぎてるので、思うほうがおかしいんだけど。これ、もしかしてだけど、全編さくらの話だったりする?

 

万事快調 オール・グリーンズ

 記事書いた。面白かったけど、記事の方で悪口ばっかり書いてて、面白かったんじゃねえのかよ、とセルフ突っ込み。

感想「万事快調 オール・グリーンズ」著波木銅 

 

 偶然手に入れた大麻の種、何もない田舎から脱出するために工業高校の女子三人組は「葉っぱ」を育てて売る計画を立てる。いろいろな問題もあるけど、”万事快調”

 

 だいたい二部構成(作中でも言及されるけど)。

 第一部が、大麻の種を手に入れるまで。

 第二部で、大麻を売りさばき、それが立ち行かなくなるまで。

 といった感じ。(+マークまであらすじ)

 

 朴秀美は工業高校のクラスに三人しかいない女子のひとり、なんとなくクラスからはぶられ気味な仲間の岩隈と特段仲がいいわけではないけど、つるむ相手もいないからつるんでいる。放課後には駅前に繰り出して、フリースタイルの集まりに参加している。ある日、才能を見込まれた朴は曲を作ってみないかと誘われる。著名なラッパーの家に招かれた朴は、そこで大麻を盗む。

 一方で、クラスに三人しかいない女子の最後の一人である矢口は家を出て、映画監督になるという野望を持っていた。日常に不満を持ちつつも、人間関係をそつなくこなす矢口は数少ない女子ということもあり、クラスの中心におり、朴たちとは疎遠な関係だった。

 偶然、駅前でフリースタイルを披露していた朴を見かけたことをきっかけに、矢口と朴は意気投合する。家を出るために金が必要だという矢口に、朴は大麻を育てて売ることを提案し……。

 

 というのが第一部。チェーホフの銃よろしく登場するマチェーテや、曲を作りに行ったラッパーの家での惨劇などもあり、第二部でもそうだけれど、細かいところの伏線が多い。丁寧に作られてるなあ、と思う。

 

 大麻を育てることになった朴たち三人は、活動停止中の園芸部のハウスを借りることに。屋上に入り込んだ三年男子コンビや、岩隈の後輩の化学部員を巻きこんだりと、多少のごたごたはありつつ、どうにか大麻の販売にこぎつけた朴たちだったが、朴の家には大麻を盗んだラッパー、佐藤がもぐりこみ、復讐の機会を狙っていた。

 卒業式の日、朴は屋上のハウスに忍び込んだ佐藤と対峙する。乱闘の末に、ハウスは炎上し、煙の入り込んだ体育館では卒業生たちがハイになる。何もかもがおしゃかになりつつも、どうにかその場から逃げ去る朴。駆け付けた岩隈と矢口と、まぁ、いいかという淡い希望を分かち合う。

 

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 多分、作者が書きたかったのは第一部なんだろうな、と思った。後半になるにつれて、「お話」を進ませるための記号的なキャラが増えていく。それでも一部の感想で書いたように伏線がしっかりしているので、それはそういうものとしてちゃんと読める。実際面白いから、読み終えられたわけだし。

 この「それはそういうもの」感って軽視してしまうけど、実はこれこそが創作物の面白さの最大の要因じゃないかと最近は思う(おもしろくするのも、つまらなくするのも)。フィクションって所詮フィクションなんだけど、これはどこかで本当の話じゃないかって思ってないと、百パーセント楽しめない。ハリウッド映画を抵抗なく楽しめてしまうのって、実際のアメリカの生活を知らないから、キャラクターの感情に集中して鑑賞できるのが大きいんじゃないかと思う。「それはそういうもの」って思って観てるわけで、むしろ実際の生活とハリウッド映画の中の世界が入れ替わってしまってる。一般的な日本人がリアリティを感じるのって、「アメリカ人の生活」じゃなくて「ハリウッド映画の中のアメリカ人の生活」じゃない?

 これは作者の世界観(世界をどう見ているか)に迎合できるか、という話でもあると思っていて、例えば、今作だと工業高校での生活についてはあまりリアリティを感じなかった。名前を書けば入れる高校の実情は知らないけど、SFやジャンリュックゴダールの引用する工業高校生が主な登場人物なわけで、そういう点では工業高校という設定は、舞台装置でしかなかった。

 でも逆に、駅前で輪(サイファー)組んで、ライム(?)を交わす場面なんかは、読者である自分が知らない世界だから「それはそういうもの」と思って、楽しく読めた。この部分だけはまだ誰にも書かれてなくて、この作者にしか書けない場面だった。「それはそういうもの」っていうフィクションのかたちを新しく作り上げてる。だから、面白い。ラッパーの生活ってこんな感じというイメージが、作者の書いたフィクションで上書きされてる。もっと詳しい人が読んだらまた違うのかもしれないけど、自分はそう読んだ。田舎の糞さは全然書けてなくて、だけど、田舎の狭いコミュニティの居心地の良さは感じられた。自分が意図的にそう読んでいるだけかもしれないけどね。

 

 あと朴という字、ついパクと読んでしまうので気付かなかったけど、文章にしてみて、一人称のぼくの代名詞として使ってるの、ちょっとダサいなと思った。それは作者も感じたのか、作中で言い訳してあるけど、その洒落っ気はべつに面白くない。

 

春を先取りしたあたたかさの夜

最近見たもの

ザ・バットマン

IWGP1~7話

万事快調 オールグリーンズ 134ページ

小説が書けないアイツに書かせる方法 81ページ

僕は僕の書いた小説を知らない 125ページ

 

 ザバットマン、よかった。バットマンに登場するヴィランバットマンのシャドウだというここ最近ピックアップされるようになった要素を継承しつつ、けれどバットマンはあくまでヒーローである、というコンセプトをきっちり描き切っていて、すごくおもしろかった。あとは暗めの画面と、画面中央にフォーカスのあったすこしぼやけたような画面作りも好きだった。

 キャラクターで言うと、ペンギンが追いまわされるだけ追い回されて損するだけの役回りだったところとか、ロバートパティンソンのアンニュイな演技とか、見る前は三時間もあるのとしり込みしたけど、まったくダレることがなくって、救われた気分になった。作り込まれている物語を見ると、救われた気分になる。。

 

 IWGP、こどものころ、姉たちが熱狂してみていた。懐かしいとかはいっさいなくて、ほとんど見せてもらえなかったので、どことなくここ見たことあるな、みたいな場面やキャラクターはありつつ、初見。

 やっぱ、窪塚洋介の演技、カッケー!

 

 あとの三つは、寝る前にちまちま読んでいる本。とっかえひっかえしてるので、一向に進まない。

 オールグリーンズはようやく本題の大麻の種を手に入れたところ。けど、それまでの部分も読んだことのない感じ(未見性)にまとめられていて、飽きたりとかはない。キャラがしっかりしているし、ちゃんと事件も起こっているので、興味が続く。

 書けないアイツ、作者がベントーの人だと初めて知った。小説家が書く小説家の話を収集しているので、その一環。最寄りの書店に行ったとき見かけて買った。創作のインスピレーションを、性的な感覚に結び付けてるのが設定の妙だなと思った。まだまだ序盤。

 僕僕は前向性健忘の小説家の話。ちまちまと話が進んでいるけれど、これからどうなるのかの予想がつかないので、すこしダレている感じか? いい仲の女の子が出てきたので、彼女が小説と絡んでくるのかなと思うけれど、興味をひかれる感じではない。何でだろうね。

最近見たもの

静岡近代美術館「藤田と熊谷」

野崎まど「小説家の作り方」

千疋屋 林檎・金柑

丸子宿 とろろ汁

アオアシ

needy girl overdose

 

 noteの方でも書いたりしたのは省くけど、こんな感じ。

 アオアシは書いてないから、ちょっと書くか。

 

野崎まど「小説家の作り方」

 駆け出し作家、物見に届いたファンレターには、小説の書き方を教えてほしい。”世界一面白い小説”のアイデアを思いついてしまった、と書かれていた。

 物見はファンの紫に小説を教えるようになるのだが、彼女は実は人工知能で……。というのがおおまかなあらすじ。やがてAIの紫は現実に物理的に干渉可能な身体を作り出し、世界はパニックに、と思わせておいて、実はそれは「取材」のための身体で……というのはAIの作者を欺くためのトリックであり、紫の本当の目的は。

 とゆるい中盤までの展開と打って変わって、どんでん返しの連続の終盤はスピード感があってよかった。結局、紫の目的は最初に述べた通り、”世界一面白い小説”を書くことで解決するのだけど、印象に残ったのは、現実に物理的に干渉可能な身体、つまりロボットを作った紫が、そのロボットの手で火に触れる場面だった。

 物見が小説を書くには「取材」が必要だ。火を書くためには火の温かさに触れる必要がある。という話は文化祭に参加したシーンで描かれていて、伏線もばっちり効いた場面ではあるのだけれど、なぜかその場面がものすごく美しく感じた。ETの指を突き合わせるシーンみたいに(ET見たことないけど)。

 

アオアシ

 これがあったら、小説の指南書いらん。「止めて蹴る」「トライアングル」「視野」などなど、サッカーの基本から教えてくれる漫画でしかも内容に普遍性があるから、物事のなんにでも応用できる。先々週、仕事で失敗して落ち込んでいたけど、アオアシ読み直したら、何したらいいか腑に落ちたので、カウンセリングにも効く。

 いろいろテクニックとか技術の話もあるけど、一番大事な根底のメンタルの話で、だからどうする? ということを徹底していて、課題・目標の設定、解決のために必要な能力・練習などなど、だからどうする? が身についていれば、あとは何でもできる。まじで最高。

 物語としても、司馬さんがでてきたあたりとか、平先輩がやめてっちゃうとことか、阿久津とか。キャラクターがぶれないから、完璧な群像劇になっていて、そのうえで主人公が成長していく少年漫画を徹底している。怖いもんなし。