感想日記 夜明けの青

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感想「涼宮ハルヒの消失」エンドレスエイトと長門の恋心

 

涼宮ハルヒの消失 限定版 [Blu-ray]

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GWにニコニコ動画で一挙放送があったので、今更ながら、アニメを見た。原作は当然のように未読(一巻だけはあるけれど、一度読んでから放置してある)。まあ、あまり偉そうに書くことでもないので、早々に本題に入ろうと思う。

 

色々と消失について(というより、涼宮ハルヒの憂鬱シリーズの批評のパターンとして)のブログを読んでみて、考えたのが、ハルヒを語る時、必ずといっていいほど、引き合いに出される命題がある。それが

非日常/日常

という対比であり、消失でキョンが選択を迫られるものも、同様の解釈だと思う。消失について言えば、非日常とは神の如き力を持つ涼宮ハルヒがいて、宇宙人未来人超能力者が存在する世界、日常とされる消失世界では涼宮ハルヒには何の特殊能力もなく、宇宙人などのイレギュラーな存在は確認されていない世界。

けれど、ぼくが思うのは、キョンが迫られた選択は本当に非日常と日常だったのだろうか、ということだ。本当は、キョンが問われた問題は、日常と日常、あり得たかもしれない並行世界を選ぶことであり、ある種ループ物の設問、本当にこの世界でいいのか、という問いだった。

 

ここまでは別に非日常/日常の対比でも同じ問題であるし、涼宮ハルヒの消失という物語の揺らぐことのない本質だとも思う。ぼくが語りたいのは、エンドレスエイトの位置づけだ。

さて、それではエンドレスエイトとは何だったのかを語りつつ、消失がなぜ日常と日常を選ぶループものなのか、を説明していけたらと思う。

まず言っておきたいのは、京都アニメーションエンドレスエイトを、かなり本気で作ったのではないか、ということだ。エンドレスエイトへの批判や感想に、見ているのが辛い、苦しい、消失でエラーを起こす長門の気持ちがよく分かる、という声が多くあり、エンドレスエイト自体が、何もない日常の苦しい繰り返しからの脱却、という位置づけを持っている。

しかし、本当にそうなのだろうか?

正直、ぼくはエンドレスエイトを見ていて、それほど辛いとは思わなかった(一挙放送で、しかもニコニコ動画のコメント付きだったのだから、本放送組とは比べ物にならないし、約15000回、繰り返した長門には悪いけれど)。それに、キョンたちの夏休みを見て、羨ましいと思わないだろうか? 楽しそうに夏を満喫するキョンたちの姿がこれでもか、と描かれていて、青春のきらめきのようなものがある。そしてそれは演出を変え、何度も繰り返される。そこにぼくは京アニの意図を感じるのだ。作中で長門が、夏休み中に起こったパターンを列挙するシーンがあるが、当然、視聴者の視点としては、なぜ制作側はそのパターンを変えて描くことをしなかったのだろう、と思うだろう。アルバイトの内容が変わる、夏祭りに行かない、等々、エンドレスエイトを面白く見せようとするなら、そういった工夫があって当然と思う。しかしそれは行われない。話数によって演出だけが変化していく。それは確実に意図されたことであり、それが意味する所は、どんな些細な日常も切り口次第で輝くということなのだ。ここでぼくが言いたいのは、あのループは、2018年までに成熟してきた日常系の物語とまったく同質のものだったのではないか、ということである。

そして何より、涼宮ハルヒの憂鬱シリーズで描かれてきた毎日が非日常であるとは思いたくない。彼らの日常には、超常現象と呼ばれるものが確かにあったが、それでも涼宮ハルヒの溜息、サムデイインザレイン、ライブアライブなど、例え非現実的な何かがなくとも、あんなに楽しそうだったではないか。

 

だからこそ、キョンが迫られたのは、日常/日常の選択であり、究極的にはハルヒを選ぶのか、長門を選ぶのか、という問題だったのだろう。

 

ここでようやくタイトル回収。

だからこそ、長門キョンに選んでもらいたかったのだと思う。

 

ハルヒの世界と消失の世界、どちらも同じ重さを持った唯一つの世界。ここで重要なのは、二つの世界がパラレルではなく、上書きされたものだということだ(長門有希ちゃんの消失というアニメがあって、今はそれを追いかけていて、結局ハルヒたちがやってきて、わいわいしだすのを見ると、うーんとか思うけれども)。つまり、両方が同時に存在することはあり得ず、どちらかしか選べない構造になっている。

ぼくはここでは長門の動機を恋心と決めつけてしまっているのだけれど、ハイペリオンに挟まっていた曖昧なキーワードや二日後という期限、あくまでキョンに選択肢を与えて、けれどそれは限定的な、とても制限された枠組みである、ということを考える時、それは長門なりの優しさであり、乙女心だと思うのだ。というのも、本当にキョンに決定権を与えるのなら期限など付けるべきではないし、長門の状況を鑑みて、しかも消失世界の内気な長門を考えるとあり得ないとは思うが、キョンに直接告白をするなりなんなりがまあ真っ当な(そんなものがあるかは知らないけれど)態度というものではないだろうか。そして、その選んでほしいという気持ち、修正の機会を与える独りよがりの優しさは、とても恋だと思う。

 

なんかもう眠たいし、上手く語れないのでこの辺りにする。エンドレスエイトの方が語れたので、まあいいんじゃないかな? というより、そっちで気力が尽きてしまった。本当は長門の恋心の方で、自由意志とか賢しらに語るつもりだったけど、上手く繋がらないし、繋げる価値もなさそう。でも、自由意志が存在するのか、を考えておくと、キョンの出した答えに重みが感じられるんじゃないだろうか。まあ、もうとにかくおしまい。自分が何書いてるのか、分からなくなってきた。

まどかマギカを今更見終えた五月の夜中