先日、最終回を迎えた「ひそねとまそたん」、とてもいい作品でしたね。タイトルにも書いた通り、女性の生き方についての作品なのかな、と後半は特にそう思いながら見ていました。とはいえ、あまりセカイ系の香りのしない、抑制された物語だったように思います。第一話ではエヴァとまったく同じシチュエーションで、まそたんに乗せられ、第十一話ではシンジくんのようにOTFに乗ることを拒否しますが、最終話では、そういう空気は非常に薄かった。それはなぜなのか。
中々、この作品を簡単に割り切って、セカイ系です、とは言い難いのですが、ぼくはとにかくセカイ系の枠組みで、ひそねとまそたんを見ていきたいと思います。
さて、やっぱり問題になるのは第一話で、特にやりたいこともなく、ぼんやりと日々を生きていたひそねは、何を思い立ったのか航空自衛隊へ入隊します。元々口の軽い(嘘が付けない、正直な)ひそねは、自衛隊の中でもうまく馴染めていない様子でしたが、ある適性に合格し、変態飛翔生体(OTF)に乗ることになります。
これって、とてもエヴァに似ているんですね。初見の時、男であるぼくはわくわくしながら見ていたのですが、見直してみると、あれよあれよという間に、謎の生物(ドラゴン)に乗せられていく様子は、かなり恐ろしいかもしれないですね。さらに、ここで柿保飛行班長が断るタイミングはいくらでもあったのに、どうして土壇場で無理だなんて言うのか、と詰め寄るシーンなど、ひそねが大人の都合で動かされているというのが、よく表れていると思います。
他にも、セカイ系的な眺めがあり、OTFはDパイと呼ばれる女性パイロットがいなければ、空を飛ぶことが出来ず、体内の熱放射が間に合わない、という説明も、ヒロインが戦う姿を眺めることしかできない、セカイ系の主人公たちを思わせます。
そして先程公式サイトを眺めていて、驚いたのは、あらすじの一番初めに「私は、君とソラを飛ぶ。」と書いてあることですね。OTFとDパイの「きみとぼく」的な関係は、キングダムの人こと飯干事務次官の白い恋人発言が、一番強力な言葉ですね。
そして、「きみとぼく」対「セカイ」という構図は、「ひそねとまそたん」対「ミタツ様」となります。大切なものを守るためDパイであることを止めたひそねは、もう一度、大切なものを守るためにこそDパイになることを決める。吻合を起こしたひそねは、今まで手に入れた大切なもの全て、まそたんに会えたから出会えたもの、だからまそたんが一番大切なんだ、と語り、まそたんと共にマツリゴトを成功させます。最終話では、楔女の秘密とマツリゴトをどう成功させるか、という問題が一つになって、ひそねたちに降りかかりますが、それを解決する、解決できる理由というものは、作品内では説明されません。ぼくら見ている人間が、その理由を考えた時、それはひそねとまそたんが一緒にいたから、というただそれだけの理由でしかないと思います。ミタツ様に楔を打ち込むとき、どうして、今までの楔女ではできなかったことができたのか。これまでと今回、違ったのは一人だったか、二人だったか、という点ではないでしょうか。言い換えると、ひそねとまそたんの関係があったからこそ、マツリゴトが成功がした、ということですね。
さて、ちょっと強引かもしれませんが、一応はセカイ系の枠で、ひそまそを語れたんではないかと思います。で、最初の問いに戻りますが、セカイ系的な匂いが薄いのは何故か。また、この問いは言い換えることが可能で、セカイ系的要素を使って、何を描きたかったのか、とすれば、ひそまその世界をもっと広く見ることが出来るんではないでしょうか。
という訳で、もうちっとだけ続くんじゃ。
まず、ひそまそのセカイ系的な空気の抑制に働いているのが、舞台が自衛隊だ、という点ではないでしょうか。自衛隊の設立された経緯や、現在抱えている制限などが、「きみとぼく」の関係性で「セカイ」を救うんだという考えが抑え込まれる、その前提になると思います。そして、対する相手が、こちらを攻撃する敵ではなく、通過するだけで被害をもたらす自然災害だという点です(竜そのものを天災のメタファーとする考えはごく一般的なものですよね?)。この辺りは本当に設定の妙で、素晴らしいと思います。
そして、ここからを本題としたいのですが、主人公たちが女性だった、ということがこの作品がセカイ系でありながら、一つ進んだ物語になれた理由ではないかと思います。
先程も描きましたが、彼女たちはセカイ系のヒロインのような立場にいます。OTFのことを一番に考え、外の世界へ戦いを挑んでいくのは、いつも彼女たちDパイなのです。その結果として、彼女たちは色々な選択肢をスポイルされます。
象徴的なのは吻合の際、恋か仕事か、という選択を迫られた時ですね。この二者択一は、もう古いものと考えたいのですが、女性にとってはまだまだ現役の問いなのかもしれません。そこに対して、星野絵瑠は恋を棄て、仕事に打ち込むことを決めますが、恐ろしいのはどちらかを棄てることではなくて、どちらかを棄てるように強制させられることです。例えば、現実の女性自衛官の方が、自分は戦闘機乗りだから結婚はしない、とはならないはずです(子供は諦めなければいけないのかもしれませんが)。ですから、Dパイである女性たちは、その時点ですでに生き方を制限されている訳です。こういった女性の生きづらさは、ひそまその随所に表れていて、まそたんの前任者であるフォレストが出る第三話などでは、ひそねが財投さんら、男性パイロットにセクハラまがいの、というよりもろセクハラを受けますし、それを指摘すれば、フォレストならOKだった、と比較によって貶されます。
ここで言っておきたいのは、だから男はダメだとか、ひそまそはそういう告発を含めた作品なんだ、ということではなく、OTFを飛ばすためにDパイとして頑張っている彼女たちが、Dパイであるがゆえに、そういった生きづらさを受け止めなければいけないということです。ひそねたちは、文字通りまそたんたちのために頑張っている訳です。なぜなら空を飛べなければ、まそたんたちは死んでしまうからです。まるでヒモ男に捕まった女性みたい、と言ったら、分かりやすいかもしれません。彼女たちが一番初めに、OTFに乗る理由は、彼らに選ばれたからでしかないはずです。それなのに、苦しさはひそねたちが受け止める構造になっているんですね。
あまりに作品内の男性を腐してしまったので、一応、言い訳というか、解毒というか、もしておこうと思います。苦しさは女性が受け止める、という話をしましたが、じゃあ男性は何をしているか、というと、男たちは何の権限もなく、ただ立っていることしかできません。それはミタツ様が現れて以降、顕著ですが、暴風圏にいるミタツ様に近付けるのはOTFのみで、通常の飛行機はその中には入れず、例えどんなに力になりたいと思っても、作品内の男性にはその力は授けられていません。また、まそたんに乗ることを拒否したひそねが、もう一度まそたんに乗せてください、と土下座したシーンでは、いいよ乗せてやるよ、といったのは上官である曽々田団指令ではなく、柿保飛行班長でした。
さて、そうはいっても、ひそねたちが苦しんでばかりか、というとそれも違います。特にひそねはDパイになってから、はじめて友達が出来、はじめて誰かと映画館に行くことが出来たなど、まそたんを通じて、彼女の世界は広がっていきます。そうした世界の美しさを実感できたからこそ、ひそねはもう一度まそたんに乗る決意が出来たし、誰も犠牲にしたくない、と行動できたのでしょう。これは日常系の文脈と言ってもいいかもしれません。水着回ならぬ無人島回、女子たちの恋バナなどなど、ひそねたちの生きる日常はとても楽しそうでした。
とまあ、なぜ長々とこんな話をしたのか、というと、最近石原千秋さんの「近代という教養」「漱石と日本の近代」という本を読んでいて、明治時代の当時、漱石の藤尾・美禰子に代表されるような、いわゆる新しい女と呼ばれる人たちが、知識人にとっての最大の謎だった、というからなんですね。明治の男性はとにかく女性のことが分からなかった。それは当時の男女はまったく別の生き物だという考えがあったり、女性の表現というものがあまりに制限されていて、彼女たちが考えていることを知るすべもなかったと考えると、ひそねとまそたんは、まさに女性から発信されたもので、それは女性が生きている世界を描いている。しかも、自衛隊という男性原理の巣窟ともいえる軍隊を舞台にして。
というわけで、改めて、最初の問いに戻ります。なぜひそねとまそたんはセカイ系の匂いが薄いのか。それは物語が「きみとぼく」の関係性に留まっていないから。では、セカイ系の構造を使って、何を描いていたのかと言えば、楽しさも苦しさもある戦う女性の世界を描いていたのです。けれど、それならば何故セカイ系なのか。それは、ひそねにとって、大切なもの全てが、まそたんとの出会いに繋がっているからです。まそたんと出会えたから大切なものが出来、それを守るために頑張れた。全てはまそたんに収束するのです。
余談。
何だか、ここまで書くのに三時間くらいかかりました。自分としては全然納得のいく内容ではないし、読んでいる人も何言ってんだ?状態になるだろうなぁ、と思っています。
上では描けませんでしたが、巫女の棗ちゃんや柿保飛行班長の背負っている苦しさについても書きたかったんですけどね。特に柿保飛行班長は、本当に一人でいろいろ背負っている人だと思います。Dパイになれず、恋人も同僚にとられ、それでも仕事を頑張っていたら、あの第十一話。そりゃあ怒鳴りますよ。見直したら、涙が出ました。
汗をかきつつ、タイプする六月の夕暮れ