感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「空挺ドラゴンズ」 アニメを見てのもろもろ

 

空挺ドラゴンズ(1) (アフタヌーンコミックス)

空挺ドラゴンズ(1) (アフタヌーンコミックス)

 

 

 こちら、原作版ではなく、ネットフリックスで配信中のアニメ版の話になります。画像がないと、記事がとても地味なので。

 ちなみに、原作は一年ほど前に、五巻まで読みました。

 

 今回、アニメ版を見終わって、ものすごく何だか、心打たれたので、ちょっとまとまりないですが、記事にしたいと思います。感じとしては

・倫理とは正しさではなく、在り方

・ポリゴンピクチャーズの経験値

・カーチャとジローの対比

・声優陣への感動

の箇条書きになると思います。

 

 まず、最終話付近の、タキタと龍の子どもの話から。もう少し、広げるとミカやクオーン市の話にまで、繋がると思うのですが、捕龍に対する向き合い方について、最近ネットや現実世界でもそうですが、倫理(あるいはマナー)がどういうものなのか、ちょっと考えさせられました。

 

 人も生き物である以上、他の命を奪うことで生活しています。そこを問い直して、命を奪うことを罪だとすると、それは生き物の原罪となるのでしょう。ここに罪悪感を感じることこそ、人間が生き物としていかに壊れているかの証左でもあるような気がしますが、そこに思い悩むからこそ、人間は人生の一回性を取り戻すことができるのだという風にも考えます。まあ、そこは余談なので省きますが、そういった罪悪感を感じることに意味があるのか、と。

 生き物がすることですから、生きるのに必要な訳で、生きるために命を奪うことに罪悪感を感じるなど、自分の生を否定するようなものです。だから、究極的にはそういった問いとは別に、生きるためには仕方ない、という方便を使う訳です。それに自覚的な人もいれば、まったく気付かないでいられる人もいる。どちらが高尚か、とはぼくは思いません。

 というのも、人の感性は多様で、どこに疑問を感じ、どこに倫理を必要とするかは、やはり人に依るからです。

 

 タキタの話に戻ります。

 極小龍の話に顕著だと思いますが、タキタは龍が生き物であるということを、ワンクールの前半ではあまり、意識していなかったように思います。10話で谷底に落ち、目の前で龍を仕留めたことで、初めて、自分は自分とは別の命を奪ったのだと自覚します。その罪悪感から、倫理が始まるのです。

 龍の子どもを、どうにか群れに帰したい。それができなければ、自分は龍捕りに戻ることはできない。

 そういうタキタの思考は、そのまま彼女の在り方になるわけです。9話の炊き出しの話でもそうですし、タキタが龍の息の根を止めた後のシーンでもそうですが、やがては空に還す、という祝詞をあげます。彼女はそれを嘘にしたくはなかったのでしょう。

 タキタが船に戻ってからの行動も、身勝手と言えば身勝手です。足に怪我をしているのに、船を歩き回り、船の所有物であるオートジャイロを勝手に飛ばしたり、それは確実にエゴなのだ、とぼくは思います。と同時に、倫理とは自分の在り方であり、エゴ、つまり、自我の表れなのだ、とも。

 

 ぼく自身は物語で、倫理の話をされるのは苦手で、そんなの今関係ないじゃん、とか思って、覚めたりしてしまうのですが、最近、考えたのは、ある二つのことがあると、その倫理の話も、すっと入り込んでくるな、と思っていることがあります。

 その一つは、キャラクターへの没入感。これはキャラと自分自身の相性の問題もありますが、しっかりとキャラクターごとの価値観が掘り下げられ、しかも、それに共感できる形で表現がなされていると、彼や彼女が持っている倫理観を、そういうものか、と受け入れられる気がします。

 で、それを前提としつつ、さらに踏み込むと、倫理観を正しさと混同しない姿勢が作品に含まれていると、それはキャラクターの信条として、胸を打つものになるのではないかな、と思っています。

 

 それと余談ですが、タキタがヘルシングのセラスにかぶって見えたのも、そういう感動に影響していた気がします。おっかなびっくり黄昏を歩くもの、と言われるセラスが、タキタの影に重なって見えました。

 

 次、6~9話のクオーン市の話。

 毒で仕留めそこなった龍が暴れる話と、ジローの恋が同時進行する素晴らしい構成の物語ですが、今回は映像について。

 虚淵玄さんが脚本をされたゴジラが、確か、ポリゴンピクチャーズの製作だったと思うのですが、今回は、その経験がばっちり生かされたのではないかな、と思います。龍が暴れたり、熱線を出したり、爆発が起こったり、怪獣映画っぽいと思ってから、ああ、ポリゴンピクチャーズじゃん、と変に納得してしまいました。そんな感じです。

 

 またしても、9話のジローの話。

 オートジャイロカルデラにある町、クオーンを飛び出すわけですが、そこでのカーチャとジローの対比が、本当に美しかった、ということを言いたいだけです。詳しくは本編をぜひ見てください。

 

 まだ日も差し込まない朝に、オートジャイロで飛び出していくジローとカーチャ。街を取り囲む火口を抜けると、そこは光に満ちた、朝の世界。という場面で、ジローはカーチャに一緒に船に乗らないか、と誘うのですが、この時、カーチャはジローに見ろよ、街から出たよ、と告げるシーン以外、ほとんどジローの背中にしがみつき、景色を見ていないのです。しかも、背中側にいるせいで、カーチャには光が当たっていない。このあと、カーチャは舌を噛むよ、といって、話を打ち切るわけですが、なぜ誘いを断るのかの説明はまったくされず、ただ映像と、あとはカーチャの所属する娼館という情報だけが、カーチャの胸の内の余韻を残しているのです。

 これが本当に美しい。上手く伝わってるか分からないですが、とにかく、言葉を尽くさない形での描写、とても良かったです。

 

 今回、一番驚いたのが、声優陣だったかもしれません。あまり声優に詳しくない自分でも、名前を知っている方ばかりで、本当に豪華な声優陣なのですが、初見でああ、この人か、と思い当たる人が少なくて、その代わりようにびっくりしました。

 中でも好きなのは、ヴァナベル役の花澤香菜さんと、ニコ役の櫻井孝宏さんですね。ヴァナベルに関しては、この人誰だ、声は知ってるんだけど、と五話ぐらい頭をひねりながら見てました。結局、エンドロールを見て、ああ、あの人! と合点がいって、印象がガラッと変わりました。

 というか、書いていて気付いたのですが、空挺ドラゴンズを見る前は、三月のライオンのアニメをじっくり見ていてのですが、花澤さんも櫻井さんも、どちらも三月のライオンに出演されているのですよね。多分、そこの落差で驚いたのかもしれません。

 ひなちゃんとヴァナベル、林田先生とニコ、前者はまったく繋がりに気付くことができずに驚いて、後者はイメージの重なりに感動しました。

 林田先生とニコはどちらも面倒見のいい先輩と言う感じで、じっくりと三月のライオンを見ていた分、重なったイメージとキャラクターに厚みを感じました。

 

 もう少し書きたいこともあるのですが、まとまらなそうなので、この辺りで。

 というか、最近はまとまった文章を書いていないので、何とも言えない気分になります。もう少し、このブログも上達していきたいものです。

 

 寒波厳しい二月の夜