感想日記 夜明けの青

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感想「2010年代SF傑作選1・2」専門性と文脈について

 

2010年代SF傑作選1 (ハヤカワ文庫JA)

2010年代SF傑作選1 (ハヤカワ文庫JA)

  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 文庫
 

 

 

2010年代SF傑作選2 (ハヤカワ文庫JA)

2010年代SF傑作選2 (ハヤカワ文庫JA)

  • 発売日: 2020/02/06
  • メディア: 文庫
 

 

 一月ぐらいかかって、ようやく読み終えたので、久しぶりに記事を書きたいと思います。正直、SFって「アステリズムに花束を」から入ったばかりで、しかも短編集しか読んでいないので、まあ間違っているかもしれませんが、今回、上の二つを読んで(厳密には、1の方から読み取った)文脈を感じたので、それを一応、吐き出しておこうかな、という感じです。

 

 ところで、いきなり話は飛びますが、最近、ぷよm@sにはまって、少ないスキマ時間にちまちまと動画を見ています。ぷよぷよって、子どもの頃に、ゲームボーイのカセットをプレイしたくらいで、まったく知らなかったのですが、めちゃくちゃ面白く見てます。初代ぷよぷよに特化して、それがどういう戦略性を持ち、どういう戦術が考えられるのか、という地点を掘り下げていて、さらに、その専門性をキャラやストーリーに乗せて、語っていて、マジですごいな(語彙力喪失)と目を白黒させる日々です。

 で、その二か月前くらいに「盤上のシンデレラ」これも、いわゆるニコm@sなんですが、それにはまった時期もあって、将棋の専門性を(とくに、こちらでは将棋の「読み」について)キャラ・ストーリーと有機的に融合させて、えがいていて、本当にたまげてたんですが、この二つを、専門性、という言葉でつなぐことができるなあ、と考えたりしています。

 

 盤デレでは、そのものずばり、将棋の専門性についての話があって、そこでは、将棋の一手の価値を、一般人に伝えるにはどうするのか、ということが語られていて、そういうものって、プロの世界では本来、当たり前ではあるんですよね。将棋でいえば、角換わりの端歩の交換だったり、例に挙げられていたのは、自転車の漕ぎだったり、見る人が見れば、そこに込められた情報量に気付くって、言えば伝わるでしょうか。

 そういう専門的な事柄に対する思いが綴られていて、その真剣さも盤デレの面白さなんじゃないかな、とか……。

 

 えー、ここで何が言いたいかというと、専門性をいかに広めていくか、という問題意識って、小説をいかに多くの人に読んでもらうかっていう問題と、かなり近いものを感じるのですよね。さらに言うと、テクノロジーを題材に扱うことの多いSFでは、その両方を作品に内包することも少なくない、と。

 では、その専門性ってどうすれば伝わるの、って話でもあって、最近はそのルートを色々、考えたり、考えなかったりしています。

 これ、専門性って言葉で、かなり便利に簡略化していて、本当はもっと厳密に説明できたらいいんですが、その辺りはまだまだ、詰められていません。ただ、ぼくが今のところ、考えているのは、専門性って文脈だよね、ということです。何かについて調べたい時には、縦(歴史)と横(同時代性の広がり)を見ろ、ということをよく聞きます(ぼくは苦手です)。で、それはなぜか、というと理解しやすいからなんですよね。前を受けて、今がある、ということが分かると理解しやすいんだと思います、知らんけど。

 

 閑話休題

 専門性は文脈。それはつまり、たった一つのやりとりに、数百の情報が含まれてしまうこと、それまでの先鋭性を獲得してしまうのには訳がある。紡がれてきた歴史の突端だからこそ、そこに今までの情報が乗っかってしまうのですよ。

 AだからB BだからC Cだから……という無意識の思考があって、それこそが文脈なのです。だからこそ、専門性を伝えるには、文脈の中に当てはめる必要がある訳です。先に語った二つのニコm@sは、正にその手法の王道ではないかな(寡聞なので、他にも例はあるのでしょうが)と思います。

 

 また言い換えると、そこにキャラクターやストーリーが入り込む余地があるということです。ぷよm@sで例えると、究極連鎖法、四連鎖ダブル、デスタワー、ハンバーガー法、カウンター、などなどたくさんの戦術が出てきますが、そこに至るまでの思考や性格の癖が、非常に丁寧に描写されています。元々、アイドルマスターの二次創作ですからキャラクターは既に多くのファンに共有されているものです。あとはそこに当てはめていくだけ、と言ったら無粋ですし、不遜ですが、まあそういう言い方はできると思います。

 繰り返しですが、それが文脈に乗せる、ということだと思います。「ぷよm@s」「盤上のシンデレラ」はアイマスという文脈と、それぞれの競技の専門性を上手く、組み合わせたからこそ、専門性を扱った作品でありながら、多くの読者を獲得しているのではないでしょうか。

 

 

 さて、前置きが長くなりました。ここから2010年代SF傑作選の話になります。といっても、言いたいことはだいたい言い終わった気はしますが……。

 上でも書きましたが、専門性と文脈を駆使した作品群というと、それはやっぱりSFというのはもともと、そういうジャンルなのではないか、と門外漢の自分は思ったりします。いや、主語を大きくしていいことなんて一つもないんですよ、本当にね。

 

 えーっと、何から書けばいいのか……。そうそう、専門性の話でしたよね。で、2010年代SF傑作選1・2を読んで、そこに含まれる専門性をどうにか読み取れたんじゃないかな、という話を書こうとしている、と。

 傑作選が小川一水さんの「アリスマ王」から始まるのが、ぼくとしてはかなり象徴的かな、と思うのですが、これを編んだ大森さん、伴名さんの意図として、AIと人間の共存について、SF界が興味を持っていたんですよ、ということを示そうとしているじゃないかな、と感じたのですよね。何度も言うようですが、ぼくは今までSFをまったく読んでこなかった人間なので、あくまで、傑作選から読み取った程度の理解です。

 で「アリスマ王の愛した魔物」がどういう話かというと、人間を利用して、巨大な計算機を作ったという話なのですよね。厳密には、語り手と聞き手のあやしげな構造も小説的には重要なのですけど。で、これ、読むと分かると思うのですが、もろAIですよね。AIじゃなくても、高度な計算機を使って、現実の問題を解決していくって、あれですよ、あれ(語彙力喪失)。

 しかも、その計算機――、算廠、人が詰めている役所みたいなものなのですが、アリスマ王以外には、上手く扱えないのですよ。上手く、質問を投げかけないと、正確に回答を返してくれない。これは、ぼくはAIの思考のブラックボックス化についての話だと思っています。

 

 やっと、ここに辿り着きました。そう、思考のブラックボックス化、これが言いたかった。ちなみに、「アステリズム」に収録されている、陸秋槎さんの「色のない緑」で初めて見た単語なので、ただ、それが言いたいだけだったりします。

 ただ、傑作選の特に1の作品の多くは、その文脈で語れる作品が多いのではないかな、と思います。「アリスマ王の愛した魔物」「鮮やかな賭け」「テルミン嬢」「海の指」「allo,toi,toi」などが、それです。初出の年代が古いので、もしかするとSF界ではこの話題は既に終わったものなのかもしれないですが。

 そして、さらに余談を重ねますが、傑作選を読んだとき、ちょうど「アリスマ王」が表題になっている小川一水さんの短編集を読んでいたんですよね。そこで「リグ・ライト」というAIのシンギュラリティと、自動運転技術を重ねた作品があったのですが、むしろ、上に書いた文脈に沿えば、こちらの方が、より適切な作品じゃないかな、とぼくは思った訳です。Aiが自我を持つ、という話ですから。ただ、そちらは短編集の書下ろしで、商業的な理由があるのかな、と思ったりもするわけです。そう思った瞬間、アンソロジストって怖いなあって。もし、IFの話ですよ、当然。もし、アンソロジーに入れたくても、入れられない作品があったとして、それは別の短編集にこそある、そして、それを読ませたい、と思った時、それを読ませる術を、アンソロジストは持っているんだな、とふと感じました。もちろん、作品は質に依った、という旨のテキストがある以上、ぼくの邪推でしかない訳ですが。……というか、そんな下世話な話ではなくて、本と本を繋げると、予想だにもしなかった恐ろしい地下水脈が見つかるという話ですね。

 

 さてさて、本題に戻りましょう。

 思考のブラックボックス化、ですが、これはAIが人間より賢くなった場合、その思考の内訳を、人間が理解できなくなる現象のことを指しています。上に挙げた五作品は、その様々な側面を描いた作品なのではないかな、というのがぼくの読みです。

 一番直接的なのは、神林長平さんの「鮮やかな賭け」でしょうか。人間が備えている自我というブラックボックスを、逆にAIに当てはめることで、自我という文学的(という認識は古いでしょうか)な問題を、あざやかにSFにしている様は圧巻です。

 「テルミン嬢」と「海の指」は、テクノロジーとしてのブラックボックスとの付き合い方に目を向けたもの、にぼくは思います。テルミン嬢は、ミジンコという超小型機会を脳に埋め込んだ女性が、原因不明の不具合により発作を起こしてしまう、という話。海の指は、世界の大半が灰洋(うみ)に飲まれ、そこから過去の遺物を取り出し、どうにか生活している世界の話。どちらも、仕組みはよく分からないけれど、生活に身近にあるテクノロジーを見事に暗喩化して、物語に仕上げています。

 最近、コロナウイルスの話題で、5Gの電波がウイルスを媒介するといって、発電所を放火したというイギリスのニュースを見ましたし、そこまで極端ではなくても、PCR検査では、コロナウイルスをどう検出するのか、まったく知らない人も多いのではないでしょうか。そういうぼくも同じです。というように、仕組みを知らなくても、身近にあるからという理由で、ぼくらはテクノロジーを使っています。それは今後、訪れるAIにおいても、同様でしょう。そういった未来の日常、或いは、既に来た日々を描いた作品であり、いずれも素晴らしい作品です(傑作選なんだから、当たり前では?)。

 「allo,toi,toi」はまだ理解できていないので、上手く語れないですが、人間の認知のかたちを描いている、という点では、「鮮やかな賭け」と同様に、人間を通して、思考のブラックボックス化という文脈を背負っているのではないかな、と。

 

 そして、ここからは作品を離れますが、思考のブラックボックス化の文脈は、最終的にコミュニケーションの話になるのではないかな、と個人的には考えています。「鮮やかな賭け」で自我の話をしましたが、畢竟、自我というものは近代社会の個人という概念が要求した、架空のものだ、とぼくは思っています。「舞姫」で近代的自我の苦悩という時、そんなものは結局、出世か結婚か、という陳腐な問いでしかじゃないか、という意見があると思います。近代的自我、という批評の立て方自体が間違っているという話もあるようですが、ぼくは、その陳腐さこそが、成果の一つだと思っているので……まあ、それはいいとして、言いたいことは一つ。他人という最大のブラックボックスに、自我という曖昧なものをぶつけることがコミュニケーションなのだとすれば、それはやはり、極大のブラックボックスなのだと思います。

 まあ、その辺りは、今後、自分自身で作品にできたらな、という感じです。

 

 今回の話は、この辺りで終わりなのですが、実際、これではまだ傑作選1の半分ほどの作品を扱ったにすぎません。2については、ほとんどノータッチですし、まだまだSFを理解したとは言えないな、と(あらゆることがそうですが、何かを完全に理解したという日はきっと訪れないですよね)。

 2については、「うどん キツネつきの」と「11階」「トーキョーを食べて育った」がなぜSFなのか、がまったく分からないので、それを今後は課題にしていきたいな、と思っています。まあ、そんな感じですかね。収録作品の中で、読んだことのある作家さんは、小川一水さんと円城塔さんぐらいだったので、今回で名前を覚えた作家さんも多いです。長谷敏司さんは「VISIONS」の「震える犬」と通底しているテーマが、かなり興味深いので、これから追いかけたいと思います。あとは、「11階」を書いた小田雅久仁さんも、気になってます。

 

五月、かみなりのなる夜。