感想日記 夜明けの青

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感想「82年生まれ、キム・ジヨン」他人の痛みを知る幸福

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

  素晴らしい作品だと思いました。

 内容はとある女性の半生記といった感じで、主に韓国における女性の待遇について書かれています。フェミニズム文学と評されているようですが、その枠を飛び越えて、もう少し広い領域にリーチしている作品だと思います。

 韓国の置けるフェミニズム文学としての「キムジヨン」については、今作の終わりに書かれている解説が詳しいので、ぼくからは何も言うことはないです。

 

 で、この作品のどこが素晴らしいのかというと、訳者の斎藤真理子さんが訳者あとがきで書かれていますが、

小説としてのしかけはキム・ジヨンの憑依体験に絞りこんで最大の効果を上げている。 

 とあるように、まるで実在の人物であるかのように、ジヨン氏の半生を追体験できるという点にその素晴らしさがあります。

 

 最近、ツイッター上で「痴漢被害には安全ピンが有効」という話が盛り上がっていて、賛否両論というか、正直に言えば、関わり合いになりたくないなという議論が散見されます。内容は各自で調べてもらえればと思うのですが、ぼくがその議論を眺めていて、反省しなければいけないなと思ったのが、女性がどういった思いで安全ピンを持つに至るのか、という点でした。もちろん、それで安全ピンで人を刺す行為が正当化されるのか、とは別の話です。

 直接は紹介しませんが、あるアカウントの方が、実戦的な武術の鍛錬を行う道場の師範だった時、真剣(ナイフ)を使えば、人を殺せてしまうような技を、痴漢に遭ったから、という理由で、本当に一生懸命、鍛えていた女性がいた、と語っていて、彼女が痴漢に遭ったことでどんな思いをしたのか、また、道場に通うまでになった経緯を思うと、安全ピンを持ち出すことに否定的にはなれない、とのことでした。

 ぼくのその時の衝撃が伝わるかは分かりませんが、ぼくは安全ピンを持ち出すことはまったく論外だ、と上記のツイートを見るまでは考えていました。それは自分で考えた結果ではなく、何となくそう思う程度のものだったので、余計にショックだったんですね。

 というのも、上記したツイートで最も重要なことは、被害に遭った女性がアクション(声を上げる、手を掴む、周囲に助けを求めるなど)を起こす際、その選択肢(この場合は安全ピンで人の手を刺すこと)を増やすことは正しいんだ、という所に立脚していたことです。

 余談ですが、ぼくの見解を言えば、やはり安全ピンで痴漢の手を刺す行為には反対です。日本は法治国家なので、痴漢には裁判という正式な手続きを経て、有罪が確定したのちに刑罰を科すべきであって、安全ピンで刺すという私的な報復行為は認められない、と考えるからです。

 が、そうはいっても、先に書いたように、痴漢被害に遭遇した女性が、その痴漢を告発する際には、もっとたくさんの手段があっていいとは思います。(ここでは冤罪や濫用については言及しません。映画「それでもぼくはやってない」などの話もあるので、本当は痴漢の被害件数や冤罪率などなど、もっと数字を基に議論するべきだとは思いますが)

 

 さて、この話でぼくが何を言いたかったのかというと、女性差別(女性に限りませんが)の問題で、そこへ理解を示せるかどうかというのは、周囲に似たような経験をした親しい人がいるのかどうかに左右されてしまう、ということです。

 ぼくは理解することを重要と思っていて、共感と同情とは分けて考えたいと思っています。

 特に同情については白饅頭さんが「かわいそうランキング」という言葉を使って、説明していますが、いかに女性が虐げられているか、という観点で話を進めていくと、必ず、他の○○の方が虐げられている、あるいは、かわいそうだと反論がなされると思います。この方法論の限界はここにあって、自ら(差別されている対象)を不幸にしていくことでしか共感を得られない。

 これは共感も同じ落とし穴にはまる危険性があって、痛みというのは主観的なものですから、他人と比較することはできない。けれど、共感や同情を得るために痛みを利用すると、「かわいそうランキング」上位になるために、自分の傷を抉っていくように、不幸になるしかない訳です。

 幸福になるために、共感や同情を集めるつもりが、どんどんと不幸になっていくというのは不毛です。また、共感や同情というのは大勢を動かすことには役立っても、個人を救いはしないと思うのです。

 

 ここでようやく「キムジヨン」の話に戻ってきます。

 ジヨン氏は、同情されることを徹底的に拒否します。環境に翻弄され、打ちのめされることはありますが、それでも自分の力を最大限に発揮して、決して泣きごとを言いません(それがジヨン氏を追いつめることになるのですが)。

 ぼくら読者は、そんな彼女の半生を追体験していく内に、彼女の痛みを「理解」していきます。心の動きに寄り添って、物語を読み進むことができるのは、小説の良い所だと思います。

 ぼくが一番つらかったのはジヨン氏が、妊娠を決め、お腹を大きくして会社に行き、仕事をやめる決意をする辺りですね。ぼくは男なのでよく考えるのですが、夫婦二人が欲しいと思った子どもでも、出産の苦労を一身に受けるのは女性なんだという負い目がある分、生々しく感じました。

 

 そろそろ、この辺りでまとめておきたいのですが、他人の痛みを知るということは実に稀で、それ故に幸運なことだと思います。親しい友人が自らの苦しみについて、深く語ってくれることは得難い経験ですし、また、友人関係になる以上、価値観の近い存在であることが多いでしょうから、自分とはまったく異なる価値観を持つ人の痛みを知る機会というのは、本当に限られたことなのでしょう。

 その最たるは、男と女、になるでしょうか。

 今回、語った「82年生まれ、キム・ジヨン」は単に女性は虐げられている、かわいそうな存在だとするだけの小説ではありません。そこには一人の女性の人生が描かれています。

 そして、それと同時にぼくが考えたいのは、ここには男性であるぼくの人生もあるということです。社会をよくしていきたいと思った時、男女が優遇、冷遇されているという二元論ではなく、結婚生活が要求するように、限られた制約の中で、ぼくらはどうやって互いを住みよくしていけるのだろうか、という風に考えていきたいものですね。それを知るよすがとして、この小説はあるのだとぼくは思いました。

 

〆切が怖い五月の終わり