感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「はねバド!」と「はるかなレシーブ」に見る勝利の価値

 

「はねバド! 」 Vol.1 DVD 初回生産限定版

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2018年夏アニメももう終わりですね。円盤の売り上げなんかも取り沙汰されていて、今回、あまり売れてないところを見ると、時代って変わったんだな、と思いますね。配信サイトなんかでいつでも見れると思うと、やっぱり手元に置いておく価値は……てなりますもんね。元々、円盤売上なんて限られたごく少数が買っていたという感じですし、どうしてもなくしたくないものだけ買うという結論になりますからね。でも、はるかなレシーブはもっと売れてもいいんじゃないかな、と思いますが、きらら系のファン層には合わなかったんですかね?

 

ええと、日記要素、終わりということで(ほぼ日記的使い方ですし、読んでくれる方もそう多くないと思うので、断る必要ないと思いますが)。

 

初めに断っておきますが、両方とも原作未読です。

さて、はねバドですが前評判の割に、大きく伸び悩んだ作品でした。ちょっと感想を漁るとギスギスとした雰囲気が受け入れられなかったのかな、と。原作との兼ね合いも悪いという声も聞きましたし、とはいえ、ぼくはかなり面白く見てました。

さて、今回はこの問題点を考えていきたいです。つまりアニメ「はねバド!」はどうして、仲間内のギスギスや、ライバルとの過激な応酬など、暗い作風になってしまったのか。

 

madderred100.hatenablog.com

 こちらの記事でも書きましたが、この問題はやはり勝敗を決するという、ぼくらの世界を包むルールに関するものだと思います。それを考える補助線として、同じスポーツものの「はるかなレシーブ」についても考えていきます。

ここで考えていきたいのは勝利の価値、言い換えれば、勝利した先に何があるのか、です。はねバドの主人公、綾乃はこの勝利の価値が信じられなくなり、苦悩します。一方で、はるかなレシーブの主人公、はるかは勝利の価値を信じた先にある苦悩に、最終話でぶつかることになりました。

どういうことかというと、綾乃は、いつも何かのためにバドミントンをしていました。いつもバドミントンをする理由というのが、彼女自身の外にあり、それを求めて、懸命に練習をしていました。ある時には母に認められるために、またある時は、バドミントン部の仲間に認めてもらうために。そして、それらは試合で勝利することで手に入れられると綾乃は信じていましたが、彼女はいくら勝っても、それらを手にすることは出来ませんでした。また、一度でも負ければ、それまで築き上げてきたものは失くなってしまう。なぜなら、それまでの信頼は全てバドミントンが強いが故に成り立ったものだったからです。しかし、信頼や愛情は、勝利で手に入れられるものではありません。だからこそ、綾乃は全てに裏切られたと感じ、バドミントンをする理由をなくします。

では、はるかなレシーブのはるかはどうでしょうか。彼女はひょんなことからビーチバレーを経験し、その楽しさに目覚めていきます。また、そのビーチバレーを楽しむ心は、単純にバレーが楽しいからではなく、かなたという相棒や、エミリ、クレア、あかりといった仲間がいるからこその楽しさでもあると思います。彼女たちは勝利という価値を信じています。なぜなら、側に仲間がいるからです。仲間たちと切磋琢磨した時間、それを証明してくれるのが勝利だからです。しかし、それは勝利だけが証明するものではありません。ぼくが印象に残っているのは、はるかなペアの初試合、愛衣と舞のペアとの試合です。結果ははるかなペアの勝利で終わる訳ですが、愛衣と舞のペアにも負けられない理由があり、物語がありました。誰よりも背の低い舞は、愛衣の「背の低い人が背の高い人を倒すのがバレーボールなんだよ」という言葉に忠実であろうとするが故に、勝利を貪欲に追い求めて、しかし、手に入れられませんでした。では、それまでの時間は、仲間との友情は無駄だったのでしょうか。いえ、それは違います。愛衣と舞は勝利こそ手に入れられませんでしたが、互いの思いや絆というものを強く確かめ合うことが出来ました。支えてくれる人がいるから、彼女たちは例え負けたとしても、次へ次へと進んでいく事が出来ます。

 

さて、何のために彼女たちはバドミントンやビーチバレーをするのでしょうか?それは、試合をする以上、戦いに勝つためです。しかし、勝利そのものの価値というのは、存在しません。ぼくらが勝利したがるのは、いつでも勝利に付随する価値を手に入れたいからです。例えば、賞金だとか、または上にあげたように仲間との絆だとか、果ては勝利による高揚感です。

そして、綾乃はその価値が見いだせなくなったからこそ、何のためにバドミントンをやっているんだろう、という問いを口にします。勝利の価値を疑い出したという点では、はるかなレシーブの一つ先を行っているようにも見えますが、ぼくは「はねバド!」と「はるかなレシーブ」は循環の構造(?)になっていると思います。ぼくらはいつでも勝利という実体のないものに脅かされています。最近でこそ、人生は勝ち負けではない、という言葉が多く広まってきたように思いますが、それでもぼくらが次なる価値を手に入れようとする時、勝利というものはとても重要な意味を持ってきます。その意味では、ぼくらは勝利を手放しで信じなければならず、一方で、どうしてこんなことをしているのだろうと自問せざるを得ません。

はるかなレシーブでは、最終話において、その問いがなされます。今まで共に歩んできた仲間と試合をし、どちらかを蹴落とさなくてはならない。一方が勝ち、片一方は負ける。はるかとかなた、エミリとクレアはそんな戦いを戦います。彼女たちには勝たなければいけない理由がありました。はるかなペアは全国大会で成美たちと試合をするため、エクレアペアは幼少期のリベンジを果たすため。当然、その一点にはこれまで賭けてきた時間が集約されます。ここでは勝利を疑うことは出来ません。疑ってしまえば、相手に勝ちを譲ることになるからです。また、今まで一生懸命に頑張ってきた仲間だからこそ、勝利を疑い、実力を発揮できずに終わってしまうことへの抵抗があります。けれど、彼女たちは願わずにはいられないでしょう。二組とも全国大会に出場できたなら、と。

試合が終わった後、彼女たちは集まって、バーベキューをします。そこでエミリはこう言います。もしかしたら、わたしはここにいなかったかもしれない、と。ただ一点、そこを繋ぎとめてくれた存在がいたから、絶対的な勝ち負けを競い合っても、はるかなとエクレアは一緒にいられるのだ、と。それは、あかりが離れ離れになりたくない、その思いで四人の絆を守ったのです。

ここには、一つの答えがあるとぼくは思っていて、勝ち負けによって壊れてしまう関係というのは、確かにあるものです。それが例え一緒にいたいと願っていても、です。が、彼女たちはそれを乗り越えていきます。どうやってか。それは一緒にいたいと、口にするだけで良かったのかもしれません。勝ったり、負けたりはある。それでも仲間でいたい、友達でいたい、と。

 

さて、もう一度「はねバド!」です。今まで信じていたもの全てを失って、綾乃はなぎさとの試合に向かいます。試合が始まる直前、綾乃はこう聞きます。「なぎさちゃんはどうしてバドミントン、やってるの?」なぎさの答えはこうです。「楽しいからだよ」綾乃は楽しいからする、ということを単純には信じられません。彼女はその思いを破壊されて、今ここに立っているからです。

しかし、試合が進むにつれて、彼女の思いは変わっていきます。彼女は、ただ勝ちたいという欲求だけでプレーします。目の前のシャトルに飛びつき、懸命に一点を取る、それだけに集中します。本来的には無価値な勝利に向かって、ただがむしゃらに頑張る。そんな中、綾乃に声援が飛び、彼女は自分が応援される立場であることに気付きます。その瞬間こそ、無価値な勝利に、価値が生み出される瞬間です。目の前のことに一生懸命になる。そうすることで、世界はきらめきを取り戻します。今まで綾乃は、遠い勝利、漠然としたものを追ってきました。母に認められたい、仲間に認められたい、そんな勝利の先ばかりを見つめていたために、綾乃は勝利の価値を見失うことになりました。目の前にぶら下がった好機をつかむ。本当はそれだけで良かったのです。勝ちたいからする。楽しいからする。その地点へ綾乃は帰ってきました。

 

というわけで、分かってもらえたでしょうか。はねバドとはるかなレシーブは循環的だという意味が。つまり、勝利という本来的には無価値なものを追いかけ続けていると、その意味が分からなくなる。それを克服するには、勝利を支えるサブ的な価値が必要で、それはここでははるかなレシーブのような、友情だったりするわけです。

しかし、両方ともアニメーション的には、試合の構成がすごく面白い作品でしたね。はねバドでは理子ちゃんの試合とか、はるかなは十一話の試合とか、いいですよね。そんな感じで、終わりです

 

曇り空の晩秋 十月の昼下がり