感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「天然コケッコー」恋とも青春とも、名前のつかないもの

 

  言葉にするとこぼれ落ちてしまうものがある。それが表しているものがあまりに大きすぎる時や、いろいろなものが絡み合っている時などは、特にそうかもしれない。

 その意味で言うと、「天然コケッコー」はその二つともなのかもしれない。少年と少女のわずかな時間、恋、青春、少女未満の女の子が少女になる物語。いろいろな言い方ができるけれど、そのどれもが少しずつ足りないような気がする。けれど、そのどれもが的外れかというと、そうとも言い切れなくて、どうにも全体像をつかむのは難しい。

 

天然コケッコー」は転校生のやってきた夏から、春にかけての一年間の物語だ。季節ごとに様々な出来事があり、ほんの少しずつ変わっていく感情や考え方。季節の歩みに比べ、その機微があまりに遅々としているから、掴みどころがないように感じる。村の子どもたちが過ごす一年は、彼らが育つには遅すぎるし、成長するには早すぎる。身体はどんどんと大きくなっていくが、心は田舎を流れる時間と同じようにゆっくりと、けれど、確かに成長していく。その一年は、若い彼らの長い道のりを考えれば、何の意味も持たないのかもしれないし、振り返れば、心の拠り所となるのかもしれない。それはしっかりとそこにあった一年ではあるけれど、思い出がいつもそうであるように、頼りなげに揺れ動く。

 

 こうして言葉を尽くせば尽くすほど、ぼくは何も言っていないに等しくなる。初めに言ったように、この映画は掴みきれない何かを持っている。それは良いとか悪いという価値を乗り越えてしまうものなのかもしれない。一年という月日の流れがあって、海へ行った思い出や、秋祭りのひりつくような記憶、バレンタインのいざこざも、そこに存在していることだけが価値であって、あの時ああだったから良かった悪かった、などということに意味があるようには思えない。それ以上ではもはや割り切れないもの。

 

 恋や青春には終わりがあり、いつか振り返ることができる。あの時こうしていれば良かった、あの頃の素直な自分に戻りたいなど、過去は採点できるが、「天然コケッコー」にあるものは、ぼくらが生きていく限り続いていくもののように思う。だからこそ、それらは価値を超えていってしまう。

 生き様というには短すぎて、青春というには長すぎる。恋と言ってしまうのは短絡で、愛と言ってしまうには未熟なのだ。

 言葉に出来ないもの、まだ名前を付けられていないもの。それに価値を付けることはやはり不可能だと思う。

 

 

 これも昔、夜の映画で見た記憶のあるものです。いい映画の名前は忘れない。あの時も、何かを受け取ったような気がしていたけれど、それが何かは分からなかった。そして、今も映画の中で描かれていることを、上手く言葉にはできなかった。またいつか、この映画を見た時、その何かが分かればいいなと思います。

 

雨上がりの午後、一月