感想日記 夜明けの青

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感想「シーユーイエスタデイ」通過儀礼を持たない少女と自己犠牲

 netflixで配信されていた「シーユーイエスタデイ」を見ました。好みの問題で言えば、ダメな映画。面白くはなかったです。ただ、今大塚英志さんの「人身御供論」を読んでいて、ちょっと思う所があったので、記事にします。

 

 結論から言うと、主人公であるCJは、親友のセバスチャンと兄であるカルヴィンという供儀を捧げられながら、成長することの出来ない少女であった、ということです。

 

 まず、人身御供論の説明からです。主な題材となっているのは「猿の婿入」という民話で、基本的にはよくある人柱の話。神の元へ嫁いだ娘が知恵を働かせて、神を殺し、逃げ帰った所で、良家の長男に見初められ、幸せに暮らす、という物語です。

 大塚氏はここで、猿が村から娘をさらい、殺す悪い神でありながら、娘が次なる世界へ旅立つときに、命を投げ出す生贄となっていることに注目します。

 

 本の中では細かい論考がありますが、ぼくが確認したいのは、少女の通過儀礼には、ある種の生贄が必要という点です。古いしきたりの世界から脱し(象徴的な死の形)そこから、もう一度こちらへ戻ってくる再生の過程において、少女たちには供儀が必要となる。

 

 これを「シーユーイエスタデイ」で考えてみましょう。

 

 黒人の世界を丁寧に描写した今作は、現実の黒人差別問題を色濃く反映し、作品の中心を占めるのは、警官による誤射事件です。このようなどうしようもない世界から、どのようにしてマイノリティが抜け出せるのか、というのが今作の裏テーマのように感じます。

 

 主人公であるCJとセバスチャンは、科学の力によって、その世界から抜けだそうと奮闘する高校生です。抜け出そうというと誤解があるかもしれませんが、そのように解釈したという話です。

 そのような状況を、周囲の大人はなかなか理解してくれません。象徴的なのはセバスチャンの祖父で、ガレージに籠もり実験を繰り返す彼らの元へやってきては、家の手伝いなりアルバイトをしろ、と迫ってきます。

 

 また、CJの兄、カルヴィンは暴力のまかり通る世界の住人でありながら、CJに理解を示す人物として描かれます。CJが元カレのジャレドと口論している時には、間に入って、妹の味方をしますが、そのやり方は非常に暴力的。直接には手を上げたりはしませんが、背後に暴力を匂わせることで、ジャレドを撃退します。

 

 このように過酷な世界で生きる、CJとセバスチャンの二人にとって、生きるべき道は一週間後に迫った化学展であり、将来の大学生活になります。

 そして、タイムマシンが完成した翌日に、前述した誤射事件が起こり、カルヴィンが死亡します。

 

 ここまでの話を「猿の婿入」と同様な解釈で見ることは可能だと思います。特に、兄が亡くなったことで、一度は落ち込みもするけれど、科学により一層打ち込み、成功するサクセスストーリーとするのは作劇として通用するのではないでしょうか? ベイマックスはそういう形でしたし。

 

 ですがCJはカルヴィンを生き返らせるために、タイムマシンを使い、過去へ戻ることを選択します。ぼくは、ここに彼女の限界を見ます。勿論、これはタイムマシンを使ったお話なので、当然そういう流れにはなります。が、象徴的に解釈すれば、これは過去に囚われ、未来へ進めなくなることの暗示とも読めます。

 

 そして、CJのタイムスリップはことごとく失敗します。また、それは過去の繰り返しとして、表現されるのです。元カレのジャレドに追い回されるのは、タイムマシンの発明に成功した時のいたずらが原因ですし、最後のタイムスリップで兄と口論になってしまうのは、序盤のシーンの繰り返しです。

 

 このようにCJは作中において、まったく成長しない。ですが、これを彼女自身の問題とするよりは、彼女のモデルケースが作中に存在しないことに注目したいです。つまり、彼女にはどうやって成長するかが分からない。

 先に書いたように、CJが目指す場所は化学展であり、大学ですが、それらはまったくと言っていいほど、描写されない。彼女には今という時間以外の選択肢が与えられていないのです。

 

 だからこそ、彼女のタイムスリップは失敗し続けるし、彼女の計画性のなさは改善していかない。セバスチャンとカルヴィンが供儀としてその死を捧げながらも、この物語が前進していかないのは、CJには想定されるべき成長が、存在しないからなのです。

 

梅雨は何処へ 六月末