感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「マイシスター、シリアルキラー」 無垢と罰の葛藤の場としてのセカイ系

 

 

妹が、また殺してしまった。

 コレデとアヨオラの姉妹は、ある秘密を抱えている。
 アヨオラが殺した三人目の彼氏フェミの遺体をコレデが片付けるところから小説は始まる。アヨオラの殺人衝動の端緒は、父親から受けた虐待にあるようで、それを知っている姉のコレデは、アヨオラを止めきれずにいる。

 繰り返される殺人に、コレデは苛立ち、悩み、葛藤する。やがてコレデは恋い慕うタデと、妹のアヨオラのどちらを選ぶのか迫られるのだが……。

 

 無力な語り手が、大切な人の選択を前に、なすすべもなく立ち竦み、葛藤するほかないという物語構造がかつて、あった。ゼロ年代セカイ系と呼ばれる物語群はおおまかに、そのような物語であったと思う。その中でも、今作「マイシスターシリアルキラー」と似通うモチーフを扱っている物語に「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」がある。

 

 いずれの作品も、語り手である主人公と、殺人を犯すヒロインが配されており(「みーまー」「チェーンソーエッヂ」ともに明確に殺人を犯すと言い切れるわけではないが、そのあたりは後述する)いずれも、語り手である主人公はヒロインの選択に関与する余地は少なく、作品内において殺人に対する葛藤を担っており、つまりヒロインたちが神話的(物語的)人物であるとするなら、小説的人物として位置している。

 

 ゼロ年代には、この葛藤にこそ重きが置かれ、論じられたのだが、ここでは深入りしない。確認したいのは、葛藤する語り手と行動するヒロインの構造である。「マイシスターシリアルキラー」において、葛藤する語り手のコレデは自らの行動で、妹のアヨオラを危機へ招き入れる。そこには、ある一つの力が働いているのではないか、と私は思う。

 

 小説ないし物語内で殺人を扱うにあたって、避けては通れないのが、倫理的問題である。相互確証としての社会契約を結ぶ近代社会以降の個人という存在は、社会の一員であることを示すため、内部規範である倫理に従う必要がある。倫理に従わない者は、相互確証を得られないために、社会に遇することを許されない、あるいは許されづらい。

 

 倫理に従うかどうか。この問いは、物語内においても強く作用する。そこでは、作者は、また語り手は、殺人についてどう思っているのか、という視線が強く作品内を貫くことになる。そして、その視線は別の形で、物語に作用する。

 殺人者は罰せられるのかどうか、という問い。

 コレデが陥ったのは、この陥穽ではなかったか。彼女が恋い慕う相手であるタデを救うため、妹のアヨオラを犠牲にする。コレデもまたアヨオラの殺人を手伝ったという点で無垢ではないはずだが、新たな犠牲者を救済するというたった一つの善行で、あるいはアヨオラを告発するという報いを得ることで、コレデは倫理的視線から逃れうる。

 

 また一方、上にあげた二作を見ると、殺人者は罰せられるのかどうか、という問いへの葛藤が物語を生むようにも思える。

「みーまー」では、まーちゃんの殺人行為は自己防衛というエクスキューズが与えられ、彼女が明確に意思を示し、行う殺人は、10巻のラストにおいてである。いずれのときも、まーちゃんは攻撃に対する反応として殺害という選択肢を浮上させる。だが、語り手であるみーくんが、それを回避させるところに、この小説のサスペンスは宿っている。

 

「チェーンソーエッヂ」でも同様だ。彼女たちが相対するのは不死身のチェーンソー男であり、その存在はどこか超常的で、彼女たちの戦う理由は世界の均衡のため、という抽象的なものになっている。人体の破損を思わせる描写はあるものの、生命の欠損には至らず、またチェーンソー男は概念的な悪の象徴のようでもある。

 

 ここでは、行動するヒロインが殺人者であるという事実は遅延され続ける。同時に、上記の殺人者は罰せられるのかどうか、という問いも遅延する。二作がその地点を巧妙に避け続けたのは興味深いことだと思う。

 

 翻って、「マイシスターシリアルキラー」では、アヨオラは殺人を確固として果たしている。しかも、フェミの時点で既に三人目であることが明かされる。さらには、食中毒で亡くなったとされるボイェガも、アヨオラの仕業ではないか、という疑念を否定しきることはできない。また、タデとの一悶着も、アヨオラから仕掛けたものではないか。状況証拠は充分すぎるほど、集まっている。

 だが、ここでも問いは遅延される。語り手であるコレデは、アヨオラの殺人の決定的瞬間を目撃することはない。アヨオラがはじめに殺害した彼氏は、そうされてもおかしくなかった相手だ、とコレデに思われている。アヨオラが各殺人の折に言うように、襲われたからナイフを使って身を守ったのだ、という言葉をそのまま受け取っても仕方ない、とコレデは思っている。ボイェガも慣れないドバイの地で食中毒になったとしても不思議ではない。三人を殺した殺人者との旅行でなければ。

 

 この遅延は、物語のクライマックス、タデとの一件の事情聴取で決定的なものになる。語り手のコレデが判断するのは、結局、タデとアヨオラの証言のどちらを信じるのか、という問題でしかない。その直前、コレデから全てを聞かされていたムフタールは、コレデにこう言う。

「きっとできますよ」

「自由になること。真実を語ることですよ」 

  ムフタールはアヨオラが殺人を犯したと確信している。だが、彼の語る「自由」や「真実」は文字通り、括弧つきのものである。というのも、彼が知る「真実」とは、コレデが語ったものでしかないからだ。

 

 問いは遅延された挙句に忘却される。コレデは、アヨオラの罪を、あるいは自らの罪を、妹が自分を必要としてるから、というごく個人的感情で不問にする。ある種、社会的要請である、殺人者に罰を、という脅迫観念――倫理は、よりミクロの状況へ後退を余儀なくされ、ついには無効化される。社会は姉妹によってハックされる。

 

 決して顔を合わせてはならない。問いの視線をかいくぐるには、素知らぬ顔でその前を通り過ぎ、社会をやり過ごさなければならない。ただただやり過ごすこと。倫理に駆られた社会、または社会構成員の視線をあえて受け止めないこと。次第に、視線は逸れ、注目は和らぐ。問いは無効化され、社会の中にいて、倫理を不問にする部外者が、そこに現れる。

感想「源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり」山本淳子三部作(仮)から読み解く、時代の中心

 

  

平安人の心で「源氏物語」を読む (朝日選書)

平安人の心で「源氏物語」を読む (朝日選書)

  • 作者:山本淳子
  • 発売日: 2014/06/10
  • メディア: 単行本
 

  

 

 上の三つを、勝手ながら山本淳子三部作、と呼ばせていただきたい。 

 テーマは一貫して、「源氏物語」「枕草子」の平安文学の傑作は、いかにして書かれたのか、という点。そこに、山本淳子さんは、一条天皇中宮定子の悲劇があったと見る。

 幼い一条天皇のもとへ入内した藤原定子は、時の権力者、中関白家と呼ばれる藤原道隆の娘であった。受領階級出身の高階貴子を母に持ち、女性ながらに漢文の教養に優れ、「枕草子」に記されるように、機知にとんだ斬新な文化の体現者であった。彼女は一条天皇の寵愛を一身に受けたが、父の死をきっかけに家は没落。悲劇の深さから出家にまで至るが、天皇のその愛の故に、後宮へ戻される(出家と還俗の当時的な意味は、各書に詳しい)。その後、権力が藤原道長に移り、娘彰子の入内を狙う道長の思惑や、貴族社会からの冷遇を受け、第三子の出産の折に、定子は身罷る。

 短い人生の、けれど盛衰の激しい道ゆきは、紫式部に愛と政治の矛盾の物語を書かせ、清少納言に定子後宮サロンの文化を書き留めさせるに至った。また、定子の死は貴族社会にも波紋を広げることになる。

 山本淳子さんが読むのは、そうした同時代に生きた人々が「源氏物語」「枕草子」をどう受け止めたのか、どう読み取ったのか、である。

 

 「源氏物語」の冒頭

いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり 

  と書く桐壺巻。当時の読者は、後ろ盾のない身分の低い更衣が天皇の寵愛を受けた、という内容を見て、定子を連想せずにはいられなかっただろう、と山本淳子さんは指摘する。「源氏物語」が書き始められたのは、定子の死の数年後。桐壺帝-桐壺更衣と一条帝-定子の関係は酷似している。これを書いた時点では、紫式部はまだ彰子のもとへ出仕する前であるが、やがて一条天皇も「源氏物語」の愛読者となっていく。そこには一条帝の時代と切っても切り離せないものが確かにあった。「源氏物語」に描かれるあまたの恋路は、一条帝と定子の恋を変奏していくようでもある。

 そこには、藤原道長を絶対的権力者として成立した一条天皇の時代、たとえ高貴な家柄の娘であっても、彼に請われれば、道長の娘のもとへ女房として出仕しなければならなかった、というような支配関係、政治的関係のしがらみの中、それに矛盾していく抑えがたい人間としての感情、愛によって引き裂かれる人間の姿が描かれている。

 「源氏物語」はフィクションとはいえ、一条天皇と定子の関係を直視し、描かれた。紫式部自身が、人生で経験した別離や諦念が、天皇中宮の悲劇というモチーフを得て、大きく羽ばたく。そして、そこにこそ紫式部は救いを見る。

いづくとも身をやる方の知られねば 憂しと見つつも永らふるかな 

 

 

 一方で、あえて悲劇に目を背け、華やかなりし文化の咲き誇る春を描き出したのが、清少納言の「枕草子」だ。「枕草子」において、定子の被った悲劇はまったくといっていいほど記されない。そこに描かれているのは、理想としての皇后定子。教養をもて、知的遊戯をたしなみ、機知によって、ささやかな日常を華やかな舞台へと変貌させる。また、それを目指す定子は、清少納言をはじめとした女房たちに、時折、課題を示す。「香炉峰の雪」がそうであるように、定子は突然に、女房たちに質問を投げかける。それは女房を試すしぐさでもあり、同時に、彼女たちを自らが理想とする後宮サロンへと導くリーダーとしての姿でもある。

 だが、それを読む当時の読者たちに、定子の悲劇が忘れられていたわけではない。むしろ、その悲劇が色濃く残っていたからこそ、「枕草子」は求められた、と『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』は記す。

 定子の死に貴族社会は動揺し、若い貴族の中からはついに出家するものまで出る。定子の死は無常と受け止められた。また、公卿の間では、生前の定子への行いから、罪悪感が同情心へと変わり、出家した若者への共感までが示される。

 そんな中、清少納言の書き記す、明るく機知にとんだ定子の姿が、どれほど慰めになっただろうか。そこに在りし日の定子の、そして、そこに仕える女房と貴族たちとの当意即妙を是とする、軽やかな教養のやり取り。

 生前、定子への白眼視を続けた貴族社会は、そのような輝かしい生活を描く「枕草子」をなぜ、握りつぶそうとしなかったのか。藤原道長こそ、我が道を邪魔するそれらをはねのけてしまわなかったのか。

 ここに「枕草子」のたくらみがある。貴族社会には「枕草子」を受け入れる素地があった。清少納言はその隙を狙いすまし、理想の皇后定子を永遠に書き留めることに成功した。それを批判するのは、紫式部のみである。

 

 

 

 『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』のP82に、「枕草子」と「源氏物語」は並んで書かれた時代があるのではないか、という内容が書かれている。冬と雪を題材に、彼女たちが作品内でやり取りを交わしている姿が垣間見える。

 時に、紫式部日記では、清少納言を批判する箇所がある。

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人 

  という書き出しで有名で、知っている人も多いだろう。これを、山本潤子さんは女房、紫式部の立場から、後宮を担う女房の対抗心から来るものだと読む。

 定子の後宮は、まさに文化サロンであり、目まぐるしい政治の世界に疲れた貴族にとって、軽妙なやり取りを交わす、心安らぐ場所であった。だが、紫式部が仕えた彰子の後宮は、先に紹介したように、高貴な家の姫君を女房として雇っていたために、共用に疎く、また当時男性陣に中心的だった漢文の素養などは期待するべくもなかった。

 つまり、彰子の後宮は、定子のそれと比較され、時には定子の後宮を懐かしむ声され聞こえるほどだった。上の、清少納言批判は、そういった文脈で書かれたものではないか、と山本淳子さんは言う。

 では、私人紫式部としては、どうだろうかという点が私は気になる。

 『平安人の心で「源氏物語」を読む』の最後に、定子の零落によって、世間は「漢才は女に不運をもたらす」と言われるようになったことが書かれている。漢文の才を父に嘆かれた紫式部は、定子の死によって、一つの道が途絶えるのを見た。「源氏物語」はそのことへの反抗ではないだろうか。愛読者の一人である一条天皇に、「源氏物語」の作者は日本書紀の講義をするべきだ、とまで言われ、その漢才をいかんなく発揮した紫式部にとって、「源氏物語」は反抗の書であったように思える。そして、それは定子の鎮魂の書として迎えられた。

 では、明確に鎮魂の意思を持ち書かれた「枕草子清少納言は、ある意味で、紫式部と志を同じくしていたのではないか。

 山本淳子さんは、その答えを「枕草子のたくらみ」の最後で記している。ぜひ、各書を読んでもらいたい。

 そして、何の根拠もなく、私が書くのは、紫式部清少納言は研鑽と闘争と共にする同志であったのではないか、ということ。また、それ故に、紫式部清少納言を批判せずにはいられなかったのではないか。足手まといはごめんだとばかりに。

 

 

 以上、内容は冒頭に挙げた三冊によっていますが、内容の不備等の責任は筆者にあります。興味を持たれた方は、ぜひ、各書を手に取っていただければ、と思います(正直なことを言えば、山本淳子さんの主張と、筆者の主張の峻別が困難な点は、すべて筆者の力量不足によるものです)。

【個人用メモ】最近見たもの

映画 15

「ザ・ライダー」

 現在公開中の「ノマドランド」という作品が素晴らしいということなんだけど、見に行くのが難しいので、同じ路線でおススメされていたこちらを観てみた。

 カウボーイやロデオには正直偏見があって、どうしてそんなことするの? という疑問が先立ってしまう。まあ、魅せられているのだというのは理解しているつもりですが。でも、馬の調教のシーンや、葦毛のガスや、引き取ってきた暴れ馬のアポロに乗るシーンなんかはすごく美しくてよかった。特に、アポロを安楽死させたシーンと、その直後の、人間はそれでも生き続けていくというセリフが作品のテーマを象徴しているのかなと。安楽死のほうがどれほど楽かわからない、その魅力に引き寄せられてしまうけれど、生き物の生きている目的はどこまで生きていたってわからないのだろうな。

 アメリカの原野のカットがどれも素敵だった。

 

血と砂

 岡本喜八監督は見やすくっていい。全滅エンドなのは知っていたので、それほど衝撃でもなかった。聖者の行進が途切れていくのは、何だか力強かった。佐久間大尉が仲代達也だったのかな? 殺人狂時代でも思ったけれど、演技がうまいなあ。年を取ってからの印象しかないので、若いころを見ると、はっとさせられる。

 作品にたいしては、日常と戦争のシームレスさが際立っているなと思った。感覚的に、そこは分けられてないんだろうな、という。地続きで、だらーっと続いていく感じ。

 

アイリッシュマン」

 マフィア映画はいろいろ観てて、好きだけど、晩年はやっぱり苦しいものがあるなあと思った。晩節を汚す、という言葉があるけれど、若いころの華々しさとの落差が一層きわだつ。あの頃のマフィアって、いまでいうところのベンチャー企業で、学がなくても成り上がれる希望の一つでもあったと思うのだけど、すごく閉塞感をかんじた。結局はやっていることが違法という点に尽きるのだろうけど、時代を経るにつれて、マフィアが過激化し、一方で取り締まりも強化されていくと、それは生きるべき道ではなくなってしまうよなあ、と。

 

ラン・オールナイト

 リーアム・ニーソンのアクション映画は、つい見てしまう。脚本は、マフィアの息子を殺してしまい、追手から逃げるという割と普通のものだったけれど、演出がよかった。旧友二人が線路で抱き合って、死を看取る場面とか、朝霧の森の銃撃シーンとか。あとは、大人組の歴史を垣間見れたところもよかった。この前にボビー・フィッシャーを観ていたのだけど、そこで、大人たちのしがらみみたいなものを提示されていたので、ちょっとフックにかかった。

 

ボビー・フィッシャーを探して

 小さな天才が、二人目のボビー・フィッシャーになる映画だと思ったら、二人目のボビー・フィッシャーを探している大人たちに、ボビー・フィッシャーは一人しかいないんだよ、一人しかいないのはみんな同じなんだよ、と教えてあげる映画だった。

 誰もが主人公にもう一人のボビー・フィッシャーになることを望んでいて(母親と公園の彼は違う)、そのために主人公は苦しむのだけど、結局、自分は自分でしかないこと(買っているゲームでドローを提案する)を確かめて、そういったくびきから抜け出していく話。

 ボビー・フィッシャーに縛られている大人たち、公園で賭けチェスをする古強者、トーナメントに出場することをやめた指導者、引き取った養子にチェスを叩き込む老プレイヤー、とどうやら過去に因縁があった雰囲気を匂わせつつも、あくまで物語は主人公のものだから、詳細には語られない、その部分がすごく気になってしまった。横道ばかり気になるのは悪い癖かもしれない。

 

「メイキング・オブ・モータウン

 モータウンの名前は知っていたけれど、所属していたグループがこれほど有名だとは知らなかった。マーヴィンゲイ、スティービーワンダー、テンプテーションズシュープリームスなどなど、さらには若きジャクソン5までが所属していたとあって、作中で流れる音楽もどれも耳なじみのあるものだった。

 あとはデトロイトの歴史が、モータウンひいてはアメリカ音楽に影響を与えていたというのも驚いた。デトロイトは今では捨てられた街、かつて自動車製造業で栄えた街(たしか「up in the air(邦題忘れた)」でもデトロイトは失業者の多い町で手ごわいって話をしていた)という印象だったけれど、かつて栄えたのかつてに、モータウンが発足する契機があって、それは南部からの移民を工場が受け入れていたという点。街角に立って暇している若者たちが、即興の音楽を歌う。そういう素地があったから、モータウンができたし、優れた才能が集まった。面白かった。

 

この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」

 アクアさまが好きなので、出番が少なくて(アクシズ教は二期でやっちゃったからね)ちょっと残念。でも、めぐみんもかわいかった。カズマは死なないと魔王軍幹部を殺せない呪いにでもかかってるのかな?

 

ソニック・ザ・ムービー」

 ……面白かったけど、普通の映画だった。エッグマンジムキャリーなのが面白かった。ソニックが主人公というより、エッグマンソニックと二人が主人公って感じ。

 

ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」

 ラストのネタバレしてたので、衝撃はなかった。この現実に戻れ議論って、あまり意味のあるものだとは思ってなくて、というのも、現実認識そのものが人間には正常な状態で機能していないという前提に立っているから、現実とフィクションを対立させるということに同意できない。「アルキメデスの大戦」が配信に来るのを待っています。

 

海獣の子供

 まさかのハードSF。人間とは何か、地球とは何か、海とは何か。それに答えるべく、一つの世界を作り出す。見たのが前なので、細部を思い出せないけれど、海の映像がすごかった。何か記事にしようと思って考えていたこともあるけれど、忘れてしまった。

 

コンスタンティン

 天使役の人、めっちゃかっこいいよね! 以上です。

 

読書 6

「小説の技法」ミラン・クンデラ

 ミランクンデラの想定している小説のすがた。それは関数。状況を設定し、人間を導入し、実存の可能性を探る。ちょっと記事にしようかな。

 

君たちはどう生きるか吉野源三郎

 冬はこの本で乗り切った感がある。めっちゃつらかったけど、これを読んでる時が幸せだったので、どうにか春を迎えられた。

 

「読んだ降りしたけどぶっちゃけ分からん、あの名作小説を面白く読む方法」三宅香帆

 読みやすくて、軽くて、助かった。小説をまた読みたいって気持ちにさせてくれた。

 

アニメ 3

「呪術廻戦」

 面白かった。作画厨なので、作画がいいとうれしい。マンガを買おうか、二期を待とうか、検討中。

ログ・ホライズン

 円卓崩壊編が盛り上がらなくてどうしようかと思ったけれど、どうにか最後は盛り上がってくれてよかった。完結編もやるだろうし、期待してる。原作も買い揃えようかな。

 

「クイーンズギャンビット」

 ドラマだけど、こっちに。三月のライオンと並置している人もいて、確かにと思った。孤児がそれしか生きる道がないと選んだ先で、同じ道を歩む仲間に出会う。あこがれるなあ、と思う。

「花ざかりの方程式」著 大滝瓶太 はかりがたい距離をはかる方法について

 

SFマガジン 2020年 08 月号

SFマガジン 2020年 08 月号

  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 雑誌
 

 

「なぞなぞを解かずに解く方法。必要なのはそれだ。」P,48

   「桜塚展開2次の項には花が咲く」これはメタファーではないと言明される。また「これは事実でなく現実である」という念押しは、方程式に寄生する植物あるいは花が物質的に存在していることを読者に了解させる。だが、その自明性とは裏腹に、方程式の花は誰にでも見えるわけではない。数学者とごく少数の見えてしまった人たちが、それを視認する限りで、話は自明性と一般性の議論へ移る。

「自明性と一般性はそもそもまったく異なる概念だ。皆が皆に「そうである」と無批判に受け入れられたところで、それは一般性を担保するものなんかじゃなく、単なる集合的主観に他ならない。」P,47

 存在の自明さが、その存在自体の一般性を担保しない。つまり、作品にあわせて言い換えるのなら、花を見ることのできた人間には花は確かに存在するものであるが、他の人間が花を見ることができるとは限らない。集合的主観ということばは、集団幻覚という語と近いかもしれない。花が確固たる存在を示しているのなら、花を見ることができない人間にも認知する方法があってしかるべきだ。それが、恐らくはここで書かれている一般性というものだと、ぼくは読んだ。

 そして、上述の引用部に至る。「なぞなぞを解かずに解く」とは、つまり「花を見ることなく認知する」ことの言い換えだ。事はここに至って、主観を相手にする。方程式に花を見ることは人間の認知機構の問題であるのか。主観によって観測したものを、別の主観に伝達する際の不手際が問題となっている。「桜塚八雲が残した方程式と植物に関する存在の自明性と一般性をめぐる問題は、現代を代表する難問のひとつ」となったのは、作中で後述されるウェイ・アイゲンベクターが提唱した完全演算定理と呼ばれる理論が前提にある。が、それはまた後述する。

 なぞなぞには解法がある。Q、パンはパンでも食べられないパンは? という質問の一般的に知られている答えはこうだ。A、フライパン。ここで問われているのは、小麦を原料とした膨化食品の提喩としてのパンではなく、「パン」という語のついた言葉の中で人に食すことのできないものである。だから、ピーター・パンという別の回答が想定されることもある。人肉食文化を有していないことを自明としている点で、この答えはいかにも弱いが……。

 閑話休題。なぞなぞの解法とは、いじわるな出題者への同化を意味している。出題者の質問の意図を正確に読み取り、その論理、文脈に沿った回答を用意しなければならない。これはあらゆる設問にも同様だが、なぞなぞと違うのは、なぞなぞはより一般性を欠いた形で質問がなされるという点だ。だから、なぞなぞを解かないという手法は自己を他人に預けることを否定する。他人の視点に立つ、あるいは他人の立場になって考える、という他者理解の形を拒む。そこで得られるのは自明性であり、一般性ではない。

 

 

 桜塚八雲が最後に残した論文『希薄気体におけるナビエ・ストークス方程式に寄生した植物の存在とその一般性』が書かれたのは、彼の友人、ウェイ・アイゲンベクターが提唱した完全演算定理の問題点への気付きによるものだった。

 完全演算定理は

 すべての問題が多項式時間内で解けることを示しただけにとどまらず、適切な初期条件と境界条件を入力すれば任意の問題を解く方法を有限値で出力できることまで示した。P,57

  「解けない問題はない」ことと「どうすれば答えが出るのか」をコンピュータが教えてくれる、というところまで人間の知性を追いつめた。だが、桜塚八雲はその定理に問題点を見出していた。

「この世界ならざる世界までも考慮することによりこの世界の唯一性を証明した定理は、世界の複数性と唯一性の境界近傍で極めて不安定な振る舞いをする」 P,60

  つまり世界を無限と仮定し、その矛盾を証拠に、世界は有限だという証明がなされた。また、世界が有限であるなら世界内の問題もまた有限であり、有限である以上、すべての問題には解がある、というのが完全演算定理の理屈だろう。客観上、世界は唯一のものだと証明された。しかし、そこには揺らぎがある。桜塚八雲は一般性を一つの物差しとして、完全演算定理への修正を試みる。

「桜塚展開とはそのような不安定領域における世界の表現である」 P,60

  完全演算定理によって、人間は知性を失った。従って、人間は客観ではなく、主観を問題にすることになる。方程式に咲く花についてだ。イデア論は主観の向こう側に、理想を置いた。それをさらにすすめた観念論では、理想というべき客観は存在せず、世界は人間の思考の中のみにうまれるものだとする。人間は己の歪んだ感覚器によって、世界を認識し、想像上の「世界」を作り上げる。これを完全演算定理あるいは桜塚展開に当てはめてみると、世界の唯一性と複数性の揺らぎの意味が、おのずと見えてくる。世界は、人間ひとりひとりの内に存在しているからだ。

完全演算定理は想像力のなかに散り散りに浮かぶすべての世界を重ね合わせることによって導かれる。P,59 

  秋津恒生が、記号に対する恋愛の所感を述べる意味は、ここから読み解ける。イデアあるいは観念への感情が完全なものであれば、世界は自分ひとりで間に合う。他人を必要とする理由はない。

 

 

 

 「桜塚展開」を主題に、アイゲンベクターの完全演算定理をきっかけとした桜塚八雲、ハルナ、秋津恒生の物語は、秋津恒生の「学問パノラマのモデリング」と呼ばれる理論によって、ひとまず完結する。同一空間上にすべての学問を配置する、あるいは、すべての学問が連続的に存在する空間を差して、

「学問はそもそも統一的な体系を成している」 

  という前提を秋津恒生は提示した。そこはすべてが物質的な世界と等価だ。桜塚八雲が墜落する飛行機の中で見た世界と、秋津恒生が描き出したパノラマとは近似を成している。それはある意味で理想の世界である。だが、バベルの塔以後の世界では異なる言語が飛び交い、異分野の学問が隣り合っている。必要とされるのは翻訳だ。コミュニケーションの本質のひとつである翻訳。言語間の翻訳も、文学を物理学へと展開する翻訳も、そして思考の言葉への翻訳も、すべてを十全に翻訳しきることはできない。そこには欠けや毀れが、あるいは余剰すら生じ、意味には揺らぎがうまれる。桜塚展開こそが不安定領域の揺らぎの表現であり、無数の学問の隣り合う場、つまり揺らぎが生成される場としての学問パノラマこそが世界のモデルである。林立する世界観の森は、世界という場に立つ個人の主観であり、それを媒介するコミュニケーションーー桜塚展開には花が咲いている。

 ここでは、あらゆる問題は距離として理解される。すべての学問あるいは個人が同一空間内に存在するためである。ミサとサクはその限りない遠さを乗り越えてやってくる。二人は秋津恒生の書きかけの論文の中にいる。二人は死圏に佇んでいる。二人は子ども部屋の二段ベッドに寝転んでいる。二人は、矛盾を内包した存在しない事象Aではない。

 

 

 

 ミサとサクは桜塚展開が内包している世界観を説明する。ミサが飛び降りるおじさんを見た屋上は「なくなったのではなく、行けなくなっただけだ」と言う。「ふたりはおたがいの世界を夜ごと子ども部屋で重ね合わせ」る。ふたりは「世界がひとつじゃないかもしれない可能性に」気付き始めている。

「みんなそれぞれじぶんの星を持っている。みんなそれぞれ同時に生まれて同時に生きている」P,54

  ミサとサクは二段ベッドの上と下で、桜塚八雲や彼らの両親が作り上げた構造の中身を埋めていく。二段ベッドは二段であるから、上と下しかない。年子の姉弟だから、双子のように突然通じ合ったりもしない。ふたりはもっとも身近な他人だ。

 ミサが飛び降りたおじさんをブログに書こうとする時、そこにあったのか定かではないものまで描写してしまう。「書けないはずのものが書けてしまう」という文は、どこかで秋津恒生の言葉に通じてしまう。

「 事象Aが存在してしまったと仮定し、この世界に起こる矛盾を示せばいいでしょう」P,64

   これは事象Aの不在の証明の仕方だ。ミサはまさしく事象Aの不在に書かされている。「事象Aを指し示す単語」がなくとも、事象Aの不在の証明にならない。それ自体が、ミサとサクの存在の仕方だ。

 秋津恒生は、ミサに左から手を握られる。サクに右から手を握られる。二段ベッドには上下しかなかったが、手は一般的に右と左にあり、真ん中には自分がいる。ミサとサクにとって、お母さんの不在がふたりをふたりにした。秋津恒生にとって、ハルナとの離婚が彼をひとりにした。ふたりとひとりは、さんにんになる。

 

 

 

学問境界近傍で言語の意味性は確率的に揺らぐ。P,66

 語り手の言葉が揺らぐ。発話者はだれだ?

「おもう」のと「考える」のは、「この世」と「あの世」くらい遠い。「そのメタファーで死圏はなに?」サクが下からきく。P,52

 語り手の地の文に、サクが質問する。

ここはあの世じゃない。わたしたちは死んでいない。ハルナは叫んだ。

ここにいないってことは死んでいるってことじゃない。

はじめからわたしたちはみんなここにいる。

ただ世界がちがうだけで、認識が食い違うだけで、ひとを勝手に殺さないで。

「出会わなかった偶然を悲観しないで」

 ハルナが確かに発話したのは「出会わなかった偶然を悲観しないで」だけなのか。そこへつながる文章は、いったい誰が?

「通常は具体的な観測点を規定し、そこから演繹的に示される結果に基づき差異を検討すべきことですが、今回の意味の式において、それはすでに抽象化された状態で組み込まれています。P,64

  語り手の存在自体が揺らぎ始める。物語とは、その始まりからして語り直されるものだからだ。既に起きたこととして語られる物語は、その時点で語り直されている。詩情はそこにある。

 

ネタバレ感想(自分語り)「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

 注意。エヴァそのものの感想というより、自分語りになってます。

 

 かつて、ぼくは不登校で、引きこもりで、ニートだった。何となく自分を殺したいと思っていて、何となくまだ生きていたいと思っていた。自分を殺す具体的な方法は思いつかず、自罰的に、消極的に、何もしないということを選び、けれど生きるということの輝かしさに憧れ、どこかに希望はないかと絶えず、辺りを見回していた。あの時のぼくは、誰かにその二つのうちのどちらかを選んでもらいたかった。ぼくを殺してくれる人か、ぼくを愛してくれる人を望んだ。

 だが、当然、そんな人はぼくの前には現れなかった。ぼくの周りにいたのは、立ち直るよう発破をかける人、やさしく現状を受け入れて声をかけてくれる人、そっと遠くから見守ってくれる人などだった。ぼくの周りにいた人、いてくれた人にも、ぼくとはまったく関係のない人生がある。そこから届く言葉は、ぼくの重力圏の外側からやってきていて、当時のぼくはそれをとても煩わしいと、鬱陶しいと思った。誰も、重力圏の内側に飛び込んできてはくれない。

 

 シンエヴァの第三村の描写を見て、約7年前の自分がそんなことを思っていたのを思い出した。シンジくんが鬱状態に入り、ただ部屋の片隅でうずくまることしかできない姿や、一人あてもなく家を出て、誰もいない廃墟でぼんやりと景色を眺めている様は、あの頃の自分と重なって見えた。

 正直、キャラクターに感情移入しながら映画を見たのは、久しぶりだった。あの頃、ぼくはそういう映画の見方しかしていなかったのに。週に一度、たしか月曜日の深夜だったと思う。日テレが映画天国という枠で、夜中に映画を流していた。鬱に近い状態だったのに、ぼくは毎週、映画を見るのが楽しみだった。楽しみだと思うことすら、引きこもりの自分との齟齬で苦しかったのだけど(引きこもりであるのなら、楽しいことやうれしいことがあってはならない、してはならないと本当に考えていた)。

 その時に見た映画で忘れられないものがある「マイブラザー」という映画だ。トビーマグワイア演じる帰還兵の、アメリカ帰国後の葛藤を描いた作品だった。そのクライマックスで、彼は自らの恋人や弟に拳銃を向け、自らの心情を吐露する。そして、自分のこめかみに銃を突きつけた。

 ぼくは、彼に感情移入していた。撃て、と思った。撃って、死んで、楽になってしまえと。けれど、もう一方で撃つな、とも思った。撃ってはいけない。死んだら、ぜんぶなくなるから。

 当時、映画をたのしみにしていたのには理由がある。ぼくは小説家になるのが夢だった。だから、よい小説を書くために映画を見て、勉強するのだ。引きこもりで小説も書いていないくせに、そう思っていた。生きることと死ぬことの板挟みだった。違う方向へ働く二つの力が、陳腐だけれど、ぼくを引き裂いていた。

 

 だから、シンジくんが泣きながらレーションを食べるシーンを見て、目頭が熱くなった。死にたいと思いながら口に運んだ食事を、おいしいと思ってしまったことがある。ぼくは死にたかった。だけど、それはおいしかったのだ。それは単なる食事であったけれど、世界の美しさの一端だと思った。世界を美しいと思わないのなら、君がまだそれに出会っていないからだ。いつか読んだ本の文句が反響していた。

 

 

 

 もし観客がシンエヴァを観て、さよならを言うのであれば、ぼくにとってそれは、シンジくんが立ち直ったときだった。「あの頃のぼくら」はもういない。現状、書かれている感想の多くが、そこに焦点を当てている。

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 ぼくも映画を鑑賞して、そのことを感じ取った。震災を乗り越え、コロナ禍を生き、それすら以後になっていくだろう。時は流れ、否応もなく変わっていく。完結までに要した長い時間が、それをより際立たせたように思う。

 

 ぼくにとって、大人になってしまったシンジくんやアスカや、ミサトさんはまだ遠い。細くはなってしまったけれど、あの頃のぼくと、今のぼくはまだ繋がっていると感じるからだ。忘れてしまっていたことに罪悪感を感じたし、あの頃のぼくが向こうの方で、このくるしみを忘れられると思っているのか、と叫んでいるのを感じる。だけど、その叫びはそれほど痛切ではない。だから、多くのすっきりとした表情で劇場を後にした人たちと同様に、ぼくもこの地点からやがては遠ざかっていくのだろう。

 この記事は、そのことを書きたかっただけの記事だ。だから、もう一度言う。「あの頃のぼくら」はもういない。そのことを肯定的に受け止めるか、否定的に受け止めるかは、その人次第になるだろう。とにかく、エヴァは終劇を迎えた。言葉にすれば、ただそれだけのことだ。

 

 

 

 余談。今回、レイトショーでエヴァを観たので、家に帰った頃には十二時近くなっていた。食事もほどほどに劇場に入ったので、帰りにスーパーへ寄って、うどんを買ってきて、茹でて食べた。

 引きこもり時代は、素うどんが一番のご馳走だった。憂鬱と空腹でいつも痛んでいた胃に、少し熱めのうどんがするりと流れ込んでいく感覚が好きだったのだ。ほとんど飲み込むようにして、うどんを食べ、どんぶりの熱を手のひらに感じながら、あたたかいお出汁をちびちびと飲み下す。ただ、それだけのことに幸福を感じられた。そして、その幸福は決して痛みにはならなかった。

 いまのぼくは、うどんに細ネギとお揚げを載せる。向こうの方で、あの頃のぼくが、それは野暮だよ、と言ってくれたらいいと思っている。

【個人用メモ】最近見たもの

映画 4

「デンジャーゾーン」

 AIの反乱がテーマの近未来SF。なのだけれど、ちょっと不満かな。AIの大尉のキャラは良かった。大尉の教育プログラムを考えた奴は、責任をとれ!

 

アウトロー

 トム・クルーズがいじめられていると楽しい。海兵隊のスナイパーおじいさんのキャラが好き。イコライザーと鎖された森との類似点が気になった。前者は、アメリカの正義執行について。ほとんど私刑と変わらないのだけれど、それはどうなの、という視点。まあアメリカに限った話でもないか。必殺仕事人とかあるし。で、後者は、原作が小説の軍隊ものの映画化について。どちらも原作がクレジットされていたと思うのだけど、魅せ方が違う分、ぎこちなさみたいなのを感じた。だから、どうということもないけど。

 

読書 3

「虫眼とアニ眼」養老孟司 宮崎駿

 対談集。ブックオフで買った。これも読んだから記事にしようか。

 

「kaze no tanbun 移動図書館の子どもたち」

 所謂、掌編集。BFC2からのつながりで、西崎さんが宣伝していた本を、まさか地元の書店で見かけたので購入。今年は読んだ本の感想くらいは、こまめに記事を書こうかな。

アニメ 0

 ログ・ホライズンと呪術会戦と友崎くんと無職転生、楽しみにしてます。とくにログ・ホライズン

感想「メタモルフォーゼの縁側」著 鶴谷香央理 思いやりは雪だるま式に

 

 

 祝、完結。

 「メタモルフォーゼの縁側」と短編集「レミドラシソ」のネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 今作は、オタク談議に憧れる高校生の佐山うららと、夫を亡くし一人で書道教室を開く市野井雪の二人がとあるBL漫画をきっかけに、年の差58歳のささやかな青春を描く物語になっています。

 なかなか勇気をもって踏み出すことのできないうららと、それを大人なりの経験や寛容さで受け止める市野井さんの、あたたかな交流が胸を打つ作品なのですが、このあたたかさや、やわらかさは何なんだろうかな、と思い、この記事を書いています。

 

 キーワードは「気付き」と「親切の往復書簡(恩返しとか報恩とか考えたんですけど、しっくりきませんでした。言いたいことはブログタイトルにあるとおりで、思いやりのやりとりが行き来すること)」です。この二つが、鶴谷さんの作品の基底に流れていることで、独特のやわらかさが醸し出されているのではないかな、と思います。

 

 

 さて、では「気付き」とは何でしょう。

 それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を知る。気がつく。
 意識を取り戻す。正気に戻る。気がつく。

 デジタル大辞泉からの引用になります。ぼくが今記事内でおもに使うのは、もっぱら1の意味。鶴谷作品では、あることに気付くことで、物語が始まっていきます。

 少し余談気味ですが、セレンディピティという言葉があり、それの意味は、偶然に思いがけない幸運な発見をする能力、なのです。鶴谷さんはこのセレンディピティがとても高い人のように思います。

 

 で、この「気付き」がについて、鶴谷香央理さんの短編集「レミドラシソ」で見ていきましょう。この一冊は初期短編集というだけあって、濃度が非常に高く、気付きの一冊と呼んで過言ではないのでは、と思います。

 まず「吹奏楽部の白井くん」#1 たった4ページの漫画ですが、コンクールで金賞を逃し、落ち込んでいる波江野くんをはげます、という内容になっています。ここで重要なのは、波江野くんをはげますことを、一番初めから目的にはしていないということです。木琴(鉄琴?)を運んでいる最中だった白井くんと安達さんは、一休みのあいだに、落ち込んでいる波江野くんに気付く。その流れで「The entertainer」を演奏し、波江野くんは元気を取り戻す。

 これは、まず初めに波江野くんに気付かなければ、起こり得なかったことで、その周りに向ける視線こそが「レミドラシソ」「メタモルフォーゼ」に通底する魅力だと思います。

 

 もう少し見ていきましょう。#2のドラムとコンガのどちらを演奏するかを選ぶ白井くんと安達さん。安達さんははじめドラムを選ぶのですが、部活後の遊びの中で、ドラムをたたく白井くんを見て、白井くんの隠された気持ちに気付きます(白井くんがドラムをたたいた後、オーマ先輩が「いやでも方向はあってる」と否定しない姿勢が好きです)。

 次に、#3「76本のトロンボーン」を演奏することになった吹奏楽部。数学の追試が決定し、自信喪失していた安達さんが登校中のバスのなかで、「76本」の英語詞を翻訳しているふみさんに出会います。「76本」はあるミュージカルの歌だということをうれしそうに、頬を染めて話すふみさんを見て、安達さんは「歌もいいけど ふみさんがいいよ」と心の中で呟きます。

 その場面の直前 ページいえばP30の、バスの横を楽団がマーチングしていく見開きの美しさは、それを想像できることへの力強さに支えられている気がします。

 

 「気付き」とは、決して「絶対の世界の真理(かっこつき)」に目覚めるのではなく、むしろ世界の多層さに目をやることではないかな、と思います。バスの横を楽団が行進する。世界にはそういう風に想像力が横溢していて、無数に絡み合っている。同じ景色を見ても、同じ感想を抱く訳ではないのと同じように、そこに幻視するものもまた、人によって違う。

 けれども、重要なのはそういう頭でっかちな部分ではなく、「気付く」こと・世界の新たな側面を見つけることは、楽しいと伝えてくれる鶴谷さんの漫画の、凛々しい面持ちの方だと、自分は思います。

 

 

 そしてそして、そういった「気付き」が表現として煮詰まったのが「まめごはん」から始まる「あやとかなのお話(仮称)」。子どもの視点から生活を見つめる、センスオブワンダーに溢れた作品で、仏壇のある部屋が怖かったり、お鍋にさじを落としただけで大事件だったりと、大人になるにつれて薄れてしまった感覚を、むんず、と掴んで見せてくれる姿が、あたたかいと思うのだけれど、一方でたくましいとか立派な、しっかりした感覚を覚えて、頼もしいです。

 まっすぐじゃないコマ割りが、はじめは読みづらいと感じるのですけど、読み進めていく内に、読みやすくならないでほしい、慣れてしまいたくないと思うのも不思議な感じがして好きな作品です。この読みづらさは「水道の水」以降、方言という形で(コマ割りが整理された一方)引き継がれていて、これも表現として素晴らしいと思うのですけど、割愛。

 ここで言いたいのは、一連の「あやとかなのお話」が「気付き」そのものの物語になっているという点。「白井くん」では気付きは物語が始まるきっかけであり、ぽんとステップを踏むための助走的であったわけですが「まめごはん」で顕著なように、飛行機とまめごはん、空想と現実が重なり合って、それ自体で一つの世界を作り上げている。先にあげた「76本」のマーチングの見開きが、今度は物語の形で描かれている訳です。

 

 「レミドラシソ」最後にあげるのは「ル・ネ」。この作品は個人的には「気付き」の極北としてあるのではないかな、と思います。

 先に書いたように「白井くん」「まめごはん」などでは、気付きが物語のきっかけであったり、気付きそのものの話だったのが、「ル・ネ」になると気付きに感情が伴って、愛おしさを醸し出している。

 「ル・ネ」の最後の2P

朝から家の手伝いで 鉛筆をいっぱい削ってきた ふたばの指の匂い

国谷のコートの しずかな お線香の匂い

スニーカーから すなぼこり

渡ってくる風

 家業、あるいは親の職業への逡巡が、苦しく、けれど、自分にとって重みのあるものであるからこそ手離せない。その悩みは、主人公だけのものではなく、あるいは誰にでもあるものだと気付かせてくれる素晴らしいシーンで、ここでは「気付き」には「それまで気にとめていなかったところに注意が向」いたり、「意識を取り戻す」という意味以上のものがこめられています。

 

 「ル・ネ」の主人公にとって、匂い(能動的に受容するかどうかを選べない感覚の一つ)としてやってくる気付き、世界の多層さは、自分では動かしようのないとしてある。それは物語中、非常勤の佐野先生の香水を再現しようとしたことでも分かる。

 思い出を形あるものとして残そうとして、失敗した。どれほど変容に敏感であっても、変化する世界を押し留めることはできない。それは「気付き」そのものの無力さでもあります。

 

 

 

 さて、このように「レミドラシソ」から、鶴谷作品の魅力の一つとぼくが考える「気付き」について語ってきました。ですが、最後に書いたように、それは変化していく世界の前では無力なのです。

 けれど「メタモルフォーゼの縁側」はその変化に対する無力を、正面から押し破った作品ではないか、とも思います。ここで、上にあげた「親切の往復書簡」の出番な訳です。1話から順にみていきましょう。

 

 うららと市野井さんの出会いのきっかけはコメダ優先生の「君のことだけ見ていたい」という作品からで、第1話では市野井さんと「君見て」の邂逅を描いて終わります。二人の直接の出会いは第2話の、「君見て」3巻を買い求めに来た市野井さんが、書店員として働くうららに声をかける場面になります。

 ここで、うららは自らの肩をもむ市野井さんを見て、椅子をすすめます。これだけなら小さな親切で終わってしまいそうなものですが、実は「メタモルフォーゼの縁側」はこの椅子をすすめたところから、始まるのです(本当か~?)。

 

 まあとにかく、この一件でうららと市野井さんにつながりがうまれたことは確かで、第3話、うららは自らすすんで「君見て」の入荷を知らせる電話を市野井さんへします。第2話のうららの親切は、市野井さんがうららのシフトを尋ねるという形で返されます。その後、うららは、バイトでいいことがあった、という訳ですから。

 さらに第5話では、喫茶店でついにオタク談議へ向かう訳ですが(コメダ先生だから、コメダ珈琲店……なのですよねえ)何しろ、はじめての経験でうららは上手く話すことができなかった、と市野井さんに謝罪します。だけど、そこで終わらないのがこの作品。後ろ向きではありますが、うららは、上手く話せなくてすみません、でもうれしかった、と素直な気持ちを市野井さんに話します。それを受けて、市野井さんはメールでのやりとりを提案したりして、親切は互いの間を行き来します。

 そんな風に、小さな小さな思いやりのやりとりが繰り返されるというのが「メタモルフォーゼ」の基本的な構造になっています。そして、それは雪だるま式に、徐々に徐々にかけがえのないものになっていくのです。

 

 その転機になるのが、第9話。同人誌即売会へ行くことが決まり、ここから物語は二人だけのものではなく、二人を結び付けた、作品をめぐる場の話に広がっていきます。

 少し飛んで、第20話。二人の出会うきっかけとなった「君見て」の作者、コメダ先生のパートがある上に、日常回と呼んで差し支えないだろう、21話にも、コメダ先生のアシスタント(というよりお手伝い?)の女性が、町で市野井さんに気付くという徹底ぶりです。同人誌即売会に参加することで、うらら・市野井さんとコメダ先生の距離が縮まっていくのです。

 

 

 

 さてさて「親切の往復書簡」を通して、大ざっぱに二巻分ほどの内容を見てきましたが、ここでもう一つ紹介しておきたい「メタモルフォーゼ」の特徴があります。

 それは作中作による気持ちの代弁です。契機となるのは、第7話。「君見て」がうららと市野井さんの心情を代弁するようになります。

 

 市野井さんはおすすめの漫画を持ってきたうららと、「君見て」の話になり、盛り上がります。そのやりとりに満足したようなうららの表情のあと、2Pのインサートが入ります。内容は「言わなくても分かる」ことについて。

 「君見て」では、それがトラブルの原因となっているらしいのですが、うららと市野井さんにおいてはその逆で、この対比がまた美しい。はじめて言わなくても分かる相手を見つけたうららの、ほっとした表情を見ていると、こちらも安心しますね。

 

 そして、それが本格化するのが、3巻になっています。冬コミのいざこざがあり、うららと市野井さんの二人のすれちがいが激しくなっている辺りです。

 えー、牽強付会ですが、この代弁の機能は、究極、気付きではないか、と思うのです。ただ代弁がこれまでと違うのは、今までの気付きは作中の登場人物、うららや市野井さんが主体であったのが、今度は読者主体であるという点。

 たとえば、うららからつむっちへの気持ちが、自分はどういう感情か分からなかったのですが、「君見て」の引用が代弁だと思って読み直してみると、しっかり引用の中で描かれていたりするのですよね(19話です、よかったら確かめてみてください)。こういう風に、読者にまで「気付」かせるという形で、気付きの力学は、作品と読者の関係にまで届いた。さらに言えば、引用がただの置き換えではない所にも、鶴谷さんのすごさを感じます。特に、5巻の引用の内容は、うらら・市野井、つむっち・英莉ちゃん、うらら・つむっち、など一つの引用のなかに、複数の代弁が隠されていて、実に多層になっています。すごい!

 

 

 して、このように、うららー市野井間の思いやり交通は、「君見て」を経由する形での三角関係へと発展しました。実際、冬コミのいざこざは、一対一の思いやりの行き違いが原因だった訳で、それをうまく回避した形です(本当に?)。

 とはいえ、多少のすれ違いもありつつ、うららと市野井さんはコミティア参加を決意し、うららは自分の漫画を描き始めます。4巻の大波乱は、そのうららが漫画を描けなくなってしまったこと。これは結局、舞い上がった市野井さんが、知り合いの印刷所を紹介することで、スランプを脱出しますが、ここで描かれていることは、親切というのは相手にしてあげたいと思って、することばかりではないのではないか、ということです。親切というと、ちょっと語弊がありますが、とにかく相手を勇気づけたいと思ってする行いの他にも、誰かをいつの間にか励ましているということは、往々にしてあるわけです。

 

 第33話。漫画を描く、とうららに告げられた市野井さんは、それまでご近所の息子さんがああでこうで、という話を聞いていただけに、うららの私生活に思いを馳せていたのだけれど、彼女の決心を聞いて、

何を心配 することが あろうか

 と桜を見上げます。冒頭の桜があるはずのカット(ご近所さんが桜の花びらを掃除しているシーン)では、桜の描写はなく、よって作品内の論理に従えば、うららの話を聞いたから、市野井さんは桜に気付いた、ということになるわけです。

 

 うららが漫画を描くと決めたことで元気づけられたのは、むしろ、市野井さんの方だったし、それは第35話冒頭の、コメダ先生と編集のそーまちんのやりとりと鏡写しのようです。

 だから、市野井さんがうららに印刷所を紹介するのは、受け取ったものに気付いて、それをお返ししたいという思いの表れなのだと思います。「メタモルフォーゼ」をあたたかく見守ってきた「親切の往復書簡」の原理は、してあげたいという気持ちよりかは、してもらったという思いから始まるものなのかもしれません。

 

 

 

 えー、話があっちゃこっちゃに飛びますが、次はうららとコメダ先生の対比の話です。2巻あたりから、その傾向があったことですが、第32話で、ついにコメダ先生とうららが、表裏の存在として描かれます。

 漫画キットを受け取り、わくわくした気持ちで漫画を描き始めたうららと、作品作りに懊悩するコメダ先生。これがやがて、おたがいの恩返し・親切へと繋がっていきます。

 

 

 そして、そこから始まったうらら漫画製作編(?)。ここでもまた、気付きの話をば。37話のあらすじは、

 ゴールデンウィークに突入したうららは、昼は予備校で勉強、夜は市野井宅で漫画製作に追われる毎日を送る。市野井さんに「漫画描くの 楽しい」と尋ねられたうららは、その場では気のない返事をするのだが、校了を終えた日、いつものバスには乗らず、眺めていただけの景色の方へ歩き出す。そこでようやく、うららは「うん… 楽しかった」と呟く。

 

 という感じ。好きなのは、ラストの1Pで、それまでバスから眺めていただけの景色をようやく見ることのできた、解放感のあるコマなのですが、あとのコマを見ると、そこはうららの身長より高い塀があって、見えるはずのないことが分かるのです。

 だけど、それは見えたのだ、とぼくは思います。

 

 個人的な感想で申し訳ないのですが、創作、特に物語というのは、やがて終わるもの、別離を宿命づけられているものです。全ての物語はライナスの毛布である、ついにその中へ浸り続けることはできない、というのは確か中島梓のことばだったと思います。

 行きて帰りし物語、その言葉が示すように、元の場所へといつかは帰らなければならない。けれど、戻ってきた場所は同じであっても、同じではない。自分自身が変わってしまったから。そこには新たなものがいやおうなしに見えてしまう。

 37話は、そのことの端的な表現だと思う訳です。

 高い塀に遮られ、見えるはずのない景色が見えてしまう。あるいは想像せざるを得ない。創作を経由して、戻ってきた場所でそれを自覚した時、やっぱり、楽しい、と思わずにはいられない。

 

 これすらも「気付き」と言ってしまうのは厚顔ですが、気付きと往復書簡、その両方ではないかな、と。この気付きは、自分のためにある。自分にしてあげられることを、振り返って、成長と呼ぶのかもしれないですね。

 

 

 

 そしてそして、やってきました最終巻。5巻は変化の予兆から始まります。

 第42話、うららの予備校の友人や、市野井さんの独白。さらに続く第43話の執着ということば。「ル・ネ」で書いたことですが、気付きは今立っている場所をより住みよく、豊かにするテクニックですが、変化していくことには無力です。

 

 けれど、うららも市野井さんも、そして恐らくは作者である鶴谷さんも、もうそれほど無力ではない。

 

 第48・49話で、うららは幼なじみのつむっちに、ある相談をされます。海外留学する彼女の英莉ちゃんの見送りに、ついてきてほしいと言われるのです。特に第49話は、「メタモルフォーゼの縁側」が出した、一つの答えだと思います。

 注目したいのは「君見て」の厚いかい。それまでは引用のたび、ページの地が黒くなっていたのが、この話では、他のコマと同じように白い地の上に載っている。例えば、47話では、ページの三分の二が引用になっていますが、最下段になると黒が抜け、引用と現在を黒字白地によって使い分けていることが分かります。つまり、49話で「君見て」が白地のうえにのっていることは意図的なことだというのが分かります。

 ひとまず、モノローグを引用します。

君といると 僕は嬉しい

君といると 僕には力がわいてくる

君といると 僕は僕の形がわかる

僕も君に それをあげたい

 この四行だけで、ぼくがこれまで長々と語ってきたことの全てがあります。

 初めに、この作品は「気付き」と「親切の往復書簡」だと書きました。作中で幾度も繰り返されてきた、思いやりあるやりとり。それはうららと市野井さんの間だけにあったわけではありません。つむっちも、その彼女の英莉ちゃんも、あるいは、コメダ先生にも。

 つまり、作中の引用で、黒地が必要なくなった理由はこうです。

 既にそれは、うららさんの一部になったから。

 「僕も君に それをあげたい」

 作中に無数に存在する「僕と君」の関係。その全てを包み込む、あたたかなことばが今作の目指した場所なのではないか、とぼくは思います。

 

 最後に、コメダ先生のサイン会にて、うららの描いた「遠くから来た人」が、ひそかにコメダ先生を勇気づけていたことが判明します。それを知らせるのが市野井さんであって、コメダ先生本人ではないのは、そこへ至るまでのきっかけが、市野井さんだったからでしょう。

 この必ずしも本人に返るとは限らない親切の往復書簡が、この世界を良くしている、と思うのは、ぼくだけでしょうか。

 

 とにかく、うららの物語は、コメダ先生に褒めてもらうことが目的ではなかった。1巻で、つむっちと英莉ちゃんが手をつないでいるのを眺めていたうららが、つむっちを引っ張って、駅まで送り届けることができた。

 そのことの方が(方と書いていますが、どちらがいいとかではなく)うららにとって、大きな出来事だったのではないかと。

 そして、市野井さんのことばもぐっとくる深みのあるもので、

この漫画のおかげで 私たち お友達に なったんです

描いてくださって ありがとうございました

 市野井さんはきっと古いタイプの人なので、旅立つ前にお世話になった人に挨拶に行くと思います。上の台詞は、そういう風に感じました。

 うららとつむっちのやりとりをライン越しに見守っていた市野井さんも、きっと、二人は離れても大丈夫なのだ、と感じたのではないでしょうか。

 そう感じたから、執着を振り払って、変化を選ぶことにした。

 「気付いたこと」はなくならない。

 「親切にしあったこと」は今も残っている。

 だから、うららはこう言うのです。

今日は 完ぺきな日 でした

 

 

 

 えーと、長くなりました。まあ、それだけこの作品が、鶴谷香央理さんの描くものが、魅力的だということで、ご理解いただければ、幸いです。

 今記事を書くにあたって、二日間、メモを取りながら、「メタモルフォーゼ」と「レミドラシソ」を読み返して、大変ではありましたが、幸せな二日間でした。そんな中で「船の舳先みたい」といううららさんの独白がずっと気になっていました。恐らく、うららさんが眺めているのは、3巻で手を入れた花壇なのでしょう。そして風は正面から吹いていて、草木がさっと二つに分かれた(野分とは台風のような風のことですが、野を分けるという字だけを見れば、風にはそういう性質がある)視界の開けたことを言っているのかな、と思っています。

 閑話休題

 記事を書こうと思ったのは、5巻を読んでしばらくしたあとでしたが、最後に書く言葉は読んだ瞬間に決まっていました。多分、「メタモルフォーゼの縁側」を読んだ人は、みんな、こう書くだろうと思います。

どうして こんなに 

どこまでも 優しいものを 作ったの 

  どうも、ありがとうございました。この記事を読んでくださった方も、この作品をぼくのもとに届けてくださった方も。

 

一月のあたたかくなると言われていた日