感想日記 夜明けの青

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感想「ハッピーボイスキラー」他人を不幸にしてしまう私の幸福

 

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何だか、随分久しぶりのブログ更新です。誰かが見てるわけではないので、別に何の問題もないのですが。

 

今回感想を書くのは、ハッピーボイスキラー。精神を病んでいる主人公が、不運な事故をきっかけに殺人に目覚めてしまうという物語です。

 

madderred100.hatenablog.com

この記事にも書いたことですが、ぼくは他人を不幸にすること、それ自体が自らの幸せである、という人について、どうにか一般的な倫理観に基づいて、幸福になってほしい(根本的な矛盾がありますが)、そういった物語を書きたいと思っているのですが、今作は正直に言って、その路線をかっちり、きっかり貫き通した映画となっています。

ライアン・レイノルズ演じる、主人公のジェリーは思いを寄せている会社の会計係のフィオナを誤って、ナイフで刺してしまいます。全編コメディタッチで描かれることと、ジェリーが精神を病んでいて、空気を読むのが苦手な部分があること、ペットの猫と犬の声が聞こえてしまうなど、映画にはジェリーの殺人癖が視聴者に肯定的にとらえられるように配慮がなされています。その最たる部分が、母親を殺してしまうシーンに表れていて、ジェリーは彼と同じく精神を病んでいる母親が、施設へと連れて行かれてしまうのを阻止するために(施設へ戻ることを拒絶する母親に頼まれて)、彼女を殺します。

作品の中盤では、フィオナの生首(ペットたちと同様に、ジェリーの心の声として喋りだす)にそそのかされることで、次なる殺人を自らの意思で行い、その快楽に溺れていきますが、犬のボスコが言うように、彼自身、特別に悪い人間ではなく、行為を反省する能力があり、そのことに悩みます。

映画のクライマックスでは、警察に追われ、火に巻かれた自宅の地下で、犬のボスコと猫のMr.ウィスカーズがジェリーが生き延びるかどうかの議論をします。ジェリーにはそのまま自宅で死ぬという選択肢と、家から抜け出した逃げるという選択肢がありました。比較的、一般的な考え方をするボスコは、罪を償うためにここで死ぬべきだと主張し、猫のウィスカーズは、自分のやりたいままに生きるのがいいと言います。

が、ハッピーボイスキラーはある種、オープンエンディング的で、物語は死後の世界的な白い世界で歌を唄って、閉じていきます。

 

ぼくはここまでを非常に悔しい思いで見つつも、残された課題として、二点を上げたいと思います。と言っても、この作品が決して悪いわけではないのですが。

まず一点、それは主人公のジェリーが精神病を患っていることです。言い換えるなら、彼の殺人癖に病気やトラウマといった原因が設定されていることと言ってもいいかもしれません。そして、なぜぼくがそれを否定するのかというと、トラウマのような原因というものが非常に物語的だと思うからであり、そうでない表現を見つけたいと思っているからです。何事にも原因と結果があると考えるのは、近代的な時間の切り分け方であり、それが日本の近代小説を生み出した手法の一つでもあるのですが(石原千秋さんの漱石と日本の近代で書いてあったことです)、それを相対化したいという野心と、別の理由としては、何かを好きになるのに理由はいらないと思うからです。車に乗るのが好き、小説を書くのが好き、スポーツをするのが好き、何でも良いのですが、それをやり始めたきっかけはいくらでも話せても、それを好きになったきっかけというのは、本当は存在しないのではないか、とぼくは思います。好きだから好き、トートロジーではありますが、好きは美しいと同じで主観的なもの、他人にどうこう言われる筋合いはないのです。それが例え、反社会的な営みであっても。

とはいえ、ハッピーボイスキラーはエンターテインメントの映画。恐らくは分かりやすさや共感しやすさを得るために、そういう設定にしたのだろうとは予想が付きますが、ここは一つ、打開したいポイント。また、次につながる話でもあるのですが、この分かりやすさ、というのが難点。

という訳で、二点目。それはジェリーの結末を曖昧にしたことです。ぼくは上ではオープンエンディングと書きましたが、まあそれも見方の一つではありますが、ラストシーンではジェリーは死んでしまっている、と考えるのが普通というか、そう読み取ってもらおうとしている節があります。

そこにはやっぱり分かりやすさがあって、人殺しをするような悪い人間は死んでしまうべきだ、という、ちょっと言い方は悪いけれど、イデオロギーがあると思います。いえ、映画自体はそういう所からは外れていますが、見ているぼくらが納得しやすい形はそうですよね、という話です。ここでもまた予測ですが、ジェリーが生き延びてしまう、或いはそういう可能性が示唆されるエンディングは、観客に受け入れられないのではないか、ということから、映画のラストをああいった形にしたのではないか、と思います。だからと言って、殺人を納得できる理由を作品内に作るのが正しい道とは思いませんが。

とはいえ、殺人をどうあっても許される行為ではありません。作中でジェリーが殺人を回避することは、不可能ではありませんでした。彼は精神病を抱えていますが、薬を飲むことで、その症状を和らげることが出来たからです。しかし、映画内で描写される、薬の飲んだ後のジェリーの認識する世界は非常に陰鬱として寂しい。だからこそ、ジェリーは薬を飲むことを拒絶して、ペットや生首と語らい、殺人を犯すのですが、彼の世界観を思うと、一概に殺人は悪い事、絶対にしたらいけない、と一概に語れるのか、という思いもあります。

ですが、ジェリーはリサと恋をして、楽しそうだったじゃないか、と言われそうですが、こういう見方もできるのではないか、とぼくは思います。それは、フィオナが友達がいなくて寂しい、だからリサを殺して、生首をもってきて、そう言われてジェリーはリサに近付くわけです。その結果として、リサと一夜を共にし、充実感をもって、人生を謳歌するのですが、その高揚感は獲物を品定めするわくわくだったのではないですか、と。

 

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