感想日記 夜明けの青

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感想「ナイスガイズ!」主人公が主人公(ヒーロー)でない物語

 

ナイスガイズ! [Blu-ray]

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 ラッセル・クロウライアン・ゴズリング主演のコメディ・アクション映画。人探しに始まり、その裏に隠された大きな陰謀へ立ち向かう、ちょっと運のいい一般人の話。

というと、少し語弊がありますが、タイトルにも書いた通り、ラッセル・クロウ演じる、示談屋のヒーリーと、ライアン・ゴズリング演じる、私立探偵のマーチはヒーローではありません。ここでいうヒーローとは物語を前進させ、問題を解決する超人的な人物の事です。例えば、探偵と言えばシャーロックホームズ、アクションで言えば、マーベルヒーローたちは、その超人的な肉体と頭脳で、事件を解決しますが、ヒーリーとマーチは違います。当然、彼らも推理はするし、悪党と派手なアクションを繰り広げますが、そのどれもが見当はずれ。ヒーリーの方はアクションはそこそここなしますが、マーチはダメダメ。右腕を骨折するは、大事な場面に間に合わないは、で散々です。けれど、彼らは自分の意思で行動し、ちょっとだけ社会に貢献する、そんな規模の小さな、だけど、とってもいい話です。

この物語は色々な視点を持っていて、おおよそ三つの見方が出来る映画になっています。まず、この映画のあらすじから見ていきたいのですが、事の発端はアメリカ自動車の排気ガス規制からです。排ガス規制に対して、裁判を争っているアメリカ三大メーカー(映画自体は70年代を舞台にしていて、実在の事件なり裁判なりがあるのでしょうが、ぼくは詳しくないので書けません)が、問題のもみ消しのため、司法省と取引をして、裁判に勝とうという企みがありました。その裁判を担当していたのが、作中でキーパーソンとなる「アメリア」の母親。この事実をアメリアが知ってしまったために、そして、アメリアが事実を暴露しようとしたために、後の事件が起こっていきます。彼女はどうにか母親の手から逃れるために、実験映画(ほぼポルノ映画)を作り、そのストーリーの中に告発を仕込むことを考えました。アメリアは彼のディーンと、ポルノ女優のミスティやポルノ業界のドンであるシドを巻き込んで、映画を作成します。が、それをきっかけにミスティが事故に見せかけて、殺されてしまい(「ナイスガイズ!」はここから始まります)、映画のフィルムを持っていたディーンは家ごと焼かれてしまいます。そんな中、ひょんなことからミスティの叔母に姪を探すように頼まれた、マーチが事件へ巻き込まれていくのです。

 

頑張って、俯瞰した視点で映画が始まるまでの時系列を書きましたが、どうでしょう。従来の映画だったなら、主人公はアメリアだったはずです。社会の悪を告発する、孤独な女性主人公。やっぱり、これで一本映画が取れそうです。が、主人公はマーチたち、さえない一般人です。

印象に残っているシーンがあるのですが、それは殺し屋がアメリアを狙い、ホテルを襲った場面で、マーチたちは殺し屋に一歩遅れて、ホテルに到着します。エレベータを下りた瞬間に、首を掻き切られたガードマンを見つけ、銃声を聞き、逃げるために乗り込んだエレベータでは、窓から突き落とされたガードマンが脇を落下していきます。

これって、他の映画なら明らかに主人公が敵のアジトに乗り込んでいくシーンです。そして、今の場面は、それを別の視点からのぞいた時の情景だと思うのです。だって、主人公ならば、多少の傷を負いながらも、何十人の敵を相手にし、ばったばったとそれをなぎ倒していくものではないですか?

また、視点を切り替えるという話はヒーリーもします。そして、マーチに至っては、私立探偵の仕事とは、一日中歩きまわって、チンピラの話を聞き、そして何の成果も得られない毎日だ、とまで言いのけます。ここでは、日々が単純作業の毎日で、自分の能力を発揮したくても、その機会が与えられないと言っているのだと思います。

えーと、話がちょっと先走ってしまったのですが、とにかくマーチとヒーリーは本来的には主人公ではありません。この物語を語る上では、おおよそ三つの視点が用意できると思うのですが、

・社会悪と戦うアメリ

アメリカ自動車業界を守るため、人の命を奪うヒールな殺し屋

・事件に巻き込まれたマーチとヒーリー

アメリカ自動車業界の話は、映画のラストでアメリアの母親から話を聞くことが出来ます。それを聞くと、彼女もまたこの物語の主人公だったのだな、と感じます。社会と個人の間で引き裂かれるリーダーの苦悩が透けて見えるわけです。彼女もまた、娘を守るためにマーチたちを動かしていた節があるので。

話を戻すと、この映画は三つの視点を持ちながら、進行していく物語です。そして、本筋は明らかにアメリアたち。では、なぜマーチたちを主人公に据えたのか、というと、それはアメリアの行動が必ずしも正しいわけではないからです。それはアメリアの母親の話でなされることですが、アメリアとその母親、という対立軸では、どちらが正しいということはできず、事実には二面性がある、という作中の言葉と深く響き合います。つまり、今までメインストリームであった視点で映画を作った場合、そこには解決できない相対化の波が押し寄せることになります。何が正しいのか分からない、映画の解決が宙に浮いてしまうのです。

アメリアの社会を告発するという物語は、アメリア自身が殺されることで一旦幕を閉じます。そこへ接ぎ木されるのがマーチたちの物語。ここではアメリアと母親が形作っていた構造は霧消して、一方の勝手な都合で情報が書き替えられたり、人が殺されるということは不公平だ、という正義によって、マーチたちの行動が保証されます。それまでは、社会悪を告発することこそ正義だ、という流れで物語が動いていましたが、ここを分水嶺に、告発そのものの強度が下がり、重要度が下がり、それが無事に上映されること、それ自体が半ば目的と化していきます。ですので、結末はあっけらかんとしていて、彼らが成し遂げたことは社会の大勢にはまったく寄与しません。ですが、それでいいのです。本来マーチたちは一般人であり、事件には巻き込まれただけ。元々、事件そのものをどうこうする力もなかったのですが、そこを押して、自分たちが決めたゴールまで突き進んだ、そのことに意味があるのだと思います。

 

が、この映画を成り立たせるにあたって、相当の苦労の跡が見えます。というのも、くどいようですが、マーチたちはヒーローではないからです。ちょっとメタなことを言うと、主人公が超人じゃないと盛り上がらないのです。先に書いたように、マーチはアクションはダメダメ、推理もいまいち。果ては以前頭を打った後遺症で、嗅覚がない。つまり鼻の利かない探偵な訳です。じゃあ、そんな人間がどうして、超人的な能力を持った殺し屋に対等に渡り合ったのか、それは運です。アメリアを追うきっかけもまた、運によって、偶然見つけ出し、その先でぶつかった敵とは運で渡り合う。

一番初めに脱落する殺し屋は車に轢かれ、二番目の殺し屋は屋上から落ちる(この時、マーチも同じように落ちるのですが、彼はプールに落ちて、難を逃れます)。とはいっても、それぞれの頑張りの上に運が加わるわけですから、事件を解決していく様には爽快感があります。だけど、彼らはやっぱりぼくらと同じ一般人なのですよね。上でも書いたことですが、マーチの日々は同じことの繰り返し、しかも何も生み出さない、空虚な毎日だと。それってぼくらが生きている日々そのもののように感じるのです。だから、この映画は、主人公が主人公でない物語なのです。

余談ですが、この映画が70年代を舞台にしているというのも、映画を作る際の苦労の表れで、これを現代に移し替えてしまうと、アメリアがSNSで全てを解決してしまうのですよね。70年代は、ちょっと抽象的に言うと、まだ世界が個人の手には余る時代だったのかな、と感じました。

 

秋の風を感じる八月の夜