感想日記 夜明けの青

主に小説・アニメ・マンガの感想、日記、雑感 誰かの役には立ちません @madderred100

感想「カメラを止めるな!」ホラー映画とはベタである

 

カメラを止めるな!

カメラを止めるな!

 

 金曜ロードショーで放送していたのを、やっと見れました。

 先に見ていた家族が「つまらないよ」と言っていたので、大分不安になりながら、見たんですけど、めちゃくちゃ面白かったです。もう彼らの評判は当てにしません。「風立ちぬ」もつまらないとかいう奴らですからね。

 

 とはいえ、前半のワンカットの部分については、監督自ら言うように、苦行に近い出来で、我慢しながら見る、という姿勢を強いられているのは確かかもしれないですね。少し前にバズっていた「物語のトンネル」と言えるかもしれません。

 寝不足の状態で見たので、後三時間くらい酔って、気持ち悪かったです。

 

 このブログはネタバレ全開ですので、見てない方は注意してください。

 さて「カメラを止めるな!」の基本構造ですが、「one cut of the dead」という劇中劇と、その映画を撮るために奮闘するスタッフたちのドタバタコメディという二層構造になっています。本当は視聴者を含めた三層構造なんですが、まあそれは解釈の違いでどうとでも言うことができると思います。

 なので、押さえておきたいのは、劇中劇とその外側、という視点です。

 

 以前、ホラー映画のベタとメタで記事を書いていて、それが今作にはぴったり当て亜はまるんじゃないかな、と思っています。

 

madderred100.hatenablog.com

 

 そこで書いたことの繰り返しになりますが、ホラー映画というものはある程度ベタ、つまりお約束で成り立っている部分があります。上記の記事は、そのベタについて、一工夫加えてある作品であり、それを比較しているのですが、その読み解かせ方の差異によって、映画の良し悪しが決まってしまっていると書きました。

 で、それが何かというと、ベタとメタをどれほど意識的に映画の中に取り込むか、ということです。ここでいう意識的に、とは視聴者にどれだけベタを分かりやすく、見せるかという問題でもあります。

 「タッカーとデイル」はベタを描きながら、視聴者にはそれをメタと読み取らせることによってコメディの演出をしており、一方で「キャビン」では映画の中に、ベタとメタ、両方の視点を取り込むことで、感情移入が難しくなり、ホラー映画を主観的に楽しむことが難しくなっている、とぼくは書きました。

 

 どうして、こんな話をしているのか、というと「カメラを止めるな!」はこれら二作品を考えた時、双方の課題を乗り越えつつ、エンターテインメントとして成功している、とぼくは思っているからです。

 では、それは何か。

 それは、映画の中にベタとメタの視点を配しながら、視聴者に没入感を損なわず、映画を楽しませることができている、という点です。

 

 冒頭に書きましたが、「カメラを止めるな!」は二層構造になっており、劇中劇の「one cut of the dead」と、それを作る映画スタッフたちの奮闘、という形になっています。

 これはそのまま「キャビン」の高校生たちと、彼らを監視する組織、という構図に置き換えることができます。また「タッカーとデイル」においては、作中におけるホラー、と視聴者が読み取るコメディの二要素でもあるはずです。

 言い換えると、ぼくらは「「one cut of the dead」を作る映画」を見ている、と言えるのです。これはまさにメタ的な視点で映画を見ている訳で、没入感が損なわれるはずですが、劇中劇は映画の冒頭に流される訳で、かなり苦行に近い出来栄えをしていたとして、そこへメタを読み取るのは、時系列的に後になります。

 

 そして、後半に描かれるのは「タッカーとデイル」的な、意味の読み替えによるホラーのコメディ化です。お約束をお約束と理解しているが故に、そこにある真意(迫真の演技のゾンビが、ただの酔っぱらいなど)を把握した時の感動、笑いは一層、際立つはずです。

 

 さて、上にも書きましたがメタ視点を映画の中に取り込むと、面白くなくなるんじゃないの? という疑問。あなたが見ていたものは、実はこういうものだったんですよ、という陳腐な種明かしというものは、それで? という感情を引き起こしやすいものです。

カメラを止めるな!」は勿論、その種明かしの仕方が秀逸であることもありますが、今回見てきた、ベタとメタの視点に沿って考えるならば、メタでありながら、没入感が損なわれないのは何故か。

 それは、視聴者がメタ視点に感情移入するからです。

 

 映画後半の、スタッフたちの奮闘劇というのは多分に「脱英雄譚」的であり、凡人たちのわずかな努力というものが結集して、映画を作り上げる物語になっています。

 「脱英雄譚」とは

『マインドマップで語る物語の物語』同人誌出します! 2018夏コミ三日目 東ト-58b - 今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)

こちらからの引用ですが、要するに「超人的なヒーローを必要としない、多数の凡人がその小さな力を集めて、物事を解決する物語」ということです。代表作には「シンゴジラ」が上げられています。

 

 で、繰り返しですが「カメラを止めるな!」はベタをメタで読み変えるコメディでありながら(ここの手際がいい)、良い映画を作るためにスタッフ全員が助け合う物語が、ビルドインされています。最後のやぐらを組むシーンでは、相当のカタルシスがありますが、先にあったのはベタとメタのアイデアで、「脱英雄譚」は後付けに近いのじゃないか、とさえぼくは思うのです。しかし、今作がある到達点に達しているとするならば、それはやはりベタとメタ、そして奮闘劇の融合だったんじゃないでしょうか。

 

 つまり、映画の前半のベタ、そしてそれを読み変えるメタの後半と、そこに含まれた、いい映画を撮るために奮闘するスタッフたちと、それを達成するカタルシス

 この三つが融合したことにより、ベタとメタを読み取りながら、映画に感情移入し、主観的に映像を楽しむ、ということが可能になったのです。

 これで、メタに感情移入する、という意味が分かってもらえたでしょうか。

 

 究極、メタフィクション的な手法とは、本当に一つのアイデアでしかなく、それを使ったうえで、どのような物語を描き出すのか、という問題でしかありません。それを何を勘違いしたのか、クリエイターというものは独りよがりで、このアイデア凄いでしょう! と受け手にアイデアを素材のまま叩きつけてしまいがちです。勿論、自戒を込めて、書いている訳ですが「カメラを止めるな!」はその一点で、凡百のクリエイターとは違った。

 ベタとメタという二項対立を使い、映画を盛り上げ、しかしその根底には作品を作り続けるスタッフたちの熱い思いの物語がある。

 どんなに努力しても、上手くいかない人生。その様子は傍から見れば、ドタバタコメディでしかないはずです。ちょっとした手違いによるトラブルの数々は、間抜けにも見えるでしょう。だけど、それがぼくら凡人の人生です。そして、さらに否定を重ねるのなら、それでもぼくらは何かを作り続けるし、出来上がった作品は思わず吹き出してしまうような、奇妙なものかもしれないけれど、そこには熱い思いがしっかりと詰まっているのです。やっぱり間抜けかもしれないけれど……。

 

 今回は結構、上手く書けたんじゃないですかね!

 いつもは支離滅裂に終わるブログですが、今回は結論もついて、自分的には満点ですよ。

 といった所で終ります。

 

書き始めるといつも二時間の春