感想「フリップフラッパーズ」パピカナの「絶対」について
GYAO!で全話配信されていたので、見ました。
見終わってからは何ともなかったのに、数日たってから、パピカの気持ちがずしんと来たので、記事にしておきます。いつもの通り、低クオリティですが。
まず、今作、自分がいいなと思ったのは、パピカのビジュアルですね。永遠に12歳のレジーもそうですけど、赤毛のボサ髪の女の子って、性癖なのかもしれないです。
あらすじとしては、思春期の女の子が、親の庇護の中から抜け出して、自分の意思で自分の人生を見つけていく、という話だと思うのですが、ここで特異だったと思うのは、やっぱりパピカの存在かな、と思いました。
特に、パピカが持っている「絶対」の気持ちが、この作品を貫く背骨になっていたのではないかな、と。
では、「絶対」とは何か、という話ですが、一応、これ借り物の概念です。自分なりの解釈でいうと、ゲッサンミリオンライブの静香を見つめる、未来ちゃんの視線がそうだと思ってます。
読んでない人には伝わらないと思いますが、その眼差しには「絶対」があると感じるんですよね。信頼、と言い換えてもいいのかもしれないですけど、どうしても零れ落ちるものがあるので、個人的には、あまり信頼と呼びたくはないです。
相手の存在が、かわらないもの、ゆるがないものとして、彼らの内側にある。有名なものとしては「けものフレンズ」のサーバルちゃんが例によくあげられますね(個人的には、たつき監督の「絶対」はあまりハマらないですね、謎です)。
で、フリフラの世界では、パピカがココナ、あるいはミミを見つめる視線には、「絶対」が含まれている訳です。
ガールミーツガールもの、ということで、パピカとココナが出会う所から物語は始まるのですが、物語として、どうしてパピカはココナに執着するのか、という理由付けが、リアリティの問題として急務になります。
ぼくが面白いなあと思うのは、やっぱりこの点で、パピカがなぜココナでなくてはいけないのか、というと、それはココナがミミの子どもだから、なんですよね。
人生で一番初めに友達になった相手の子ども、しかも、パピカはミミから、この子には自由に生きてほしいという願いまで聞いている訳です。母親の願いが、なぜかその友達を経由して、子どもに注がれる、という構造は、親から子供へ直接、語られるものより強く作用します。その上、パピカがその願いにとことん忠実であるということも、胸を打つのだと思います。
何が言いたいか、というと、パピカがミミの願いを(物語冒頭で、パピカがそれを忘れていたとしても)ココナにリレーしようとする行為、意思は「絶対」であり、それは親子二人を見てきたパピカだから、という点に、親からの卒業という物語を支える構造を感じます(すげー堅苦しくなっちゃいましたけど、本当に言いたいのは、大人パピカナが、子どもココナをお世話しているところを想像すると、めっちゃぐっとくるんですよ、ということ)。
これを見た時、ぼくは「メイドインアビス」のオーゼンを思い出しました。彼女も、ライザとリコという親子二人を見届ける役目を担っていました。オーゼンは、どちらかというとライザに恋愛感情のようなものを抱いていたようなので、パピカとはまた違うのですが、それでも、かつてのパートナーの子どもをどう感じるのか、という百合的な視点で見ると、興味深いと思います。
パピカにとって、ココナは大切な友達である以前に、大切な友達の子どもだった。そのこと自体が持っている強度が、パピカの「絶対」をより強くした。
その辺りが、今作のとても面白いところだったかな、と思います。
十月の初め、中秋の明月の夜